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 Colour, the use of which aids, exalts, and in the union with lights and shadows, makes a whole when harmonius; or debases, distracts breadth and produces glaring inconsistencies.

  色は、光と影の融合を助け、高める。その溶け合い、又は、沈殿は、息使いが散るようで、輝かしい不合理を産み出すための全てを作り出す。


 Colours are as primitives deductable in succession by the prism and the incidental ray of light; and the qualities of sentiment have been attempted, they must be left with those who framed them; and it must be admitted that although such have regulated some theorists, and formed their characteristic systems of pure colour and arrangements, still upon further inquiry, it would be found that form contributed mostly to the practice of these sentiments of colour, particularly in those who dollow colour as sentiment, such as glory: yellow,;blue; duty, red; power, as primitives; authority: purple; green; servitude, as compounds; they must be left with those who framed them as emblematical concepts and typical allusions.

 色彩とは、プリズムと偶発的な光の流れによる、継続的かつ原始的な差し引きである。感情の質が高められ、色彩に関係する人々と共に残されなければならない。幾人かの理論家によって秩序立てられてはいるが、そのまま受け入れられなければならない。そして、純粋な色と構成の、唯一無二の組立てとなり、更に望むなら、その組み立ては、大抵、色による感情の表現に役立っており、特に感情を表すのに色を使用するため使われる。勝利は黄色、青は義務、赤は原始的な力や権威、紫や緑は隷属な形、というように。色は、象徴的な意識と共に、又、典型的な示唆に基づき配置されるべきである。


 But as to tone or strength, comparatively red possesses the utmost power of attracting vision, it being the first ray of light and the first which acknowledges. the diminishing of light, tho it is a shade to yellow, as blue is to red. Thus far as primitive strengths; and in arial perspective yellow would be medium, red material, blue distance. White in prismatic order, in the rainbow, is the union or compound light, as daylight; while the commixture of our material colours becomes the opposite, darknes.

 しかし、雰囲気や強さにおいて、比較的、赤は最も視覚を引き付ける力を持っており、光が一番に差して、最初に認識できるものである。一方で光の消失は、黄色、青、などが赤となる。すなわち、原始的な強さにすると、そして、遠近においては、黄色は容器、赤は中身、青は距離感だろう。虹を描く場合、白は、プリズム状の順序では、融合や複合的な光であり、それは例えば日の光などである。かたや色彩の調合はその反対で暗さを示す。


  Light is therefore colour, and shadow the privation of it by the removal of these rays of colour, or s subduction of power, and these are to be found throughout nature in the ruling principles of diurnal variations. 

 -Hence arises the quality of its force, and each becomes a light and shadow of its own power, comparative to the means; and thence opens an immense field of combinations of the primitive and comparative. Thence it proceeds to the combinations of the dense material colour and the pictorial means of expressing colour;  

 光は、よって色彩であり、影は、それら色彩の流れを取り除いた個、或いは、力の沈み込みである。これらは、様々な、秩序だった規範に基づく自然を通して、見られるものである。

 ー しかし、その力の質が現れる時、又、それぞれが光や影の力を持つ時ー比較的な意味ではーいよいよ、原始と比較の融合という大きな分野が生まれる。それによって、密度高い物質と色彩表現という、絵画的な意味が統合され、促される。 

 ーfrom J.M.W. Turner

               "on Colour 1818"



 ひとり時間・・・所沢の角川武蔵野ミュージアムでのモネ・イマーシブジャーニー展へ行きました!

 モネの数々の名作がプロジェクションマッピングのように広いスペースの床から天井から壁面全体に映し出され、当時の室内楽?と共に楽しむtごいう、『没入型』展示。


 流れるような場面場面は、時に描かれた主題の、例えば手足や、例えば草花が動き、正に、モネの眼前にそれらがどう動いていたか、どう揺れてどうふるえていたか、まで、見ている側の想像も広がり、モネの眼に映った光景を追体験できるような感じを覚えました。

 モネや印象派への理解や興味がより深まるかもしれない、新しいタイプの展示方法に感動。360度モネの世界観に囲まれて、五感・六感にまで色彩が浸透すよるようで、終わってみればそれは良い時間でした。

 ただ、これは、あくまでも疑似体験。バーチャルが本物への入り口になるか、はたまたバーチャルがバーチャルという本物になるのかはわからないけれど、そういう意識を念頭にこれからもより深まっていってほしいジャンルだと思います。

 久しぶりの投稿・・・毎回そうかな?この5年、私はいわゆる専業主婦。母親業+主婦業で過ごしてきた。家事育児のみで過ごすのは、色々いわれている以上にあっという間に時間が経つ大変さ。私は、子供が赤ちゃんの内は保育園などに預けないで自分の目で手で確かめながら育てたいと夢見ていたので、物理的にも経済的にもそれが出来る環境で良かったと本当に感謝している。あと、歌と読み聞かせの練習をしながら、図書館で読み聞かせしたり、ポケカラアプリでいわゆるネットシンガーやったり。公共施設のボランティアや、SNSアプリのお蔭で、自由に気楽に歌や朗読を人々に聴いて頂ける場がある今日。それらは、それはそれで、ようやく憧れとタイミングが人生上で合致したという事で、本当に『自由』で、本当に『私の人生を生きている』という時間だったと思う。

 それまでの私は、夢見るだけで見過ごしてきたものばかりだったりする。又は、せっかく夢が叶ってもいまいち「今じゃないんだよなー、10年前だったらよかったのに・・・」などとタイミングがずれていたり。


 そこで、映画『塔の上のラプンツェル』から、オープニングナンバー"when will my begin?"を思いだした。邦題は『自由への扉』。実に絶妙な原題と邦題だと思う。


I'll keep wondering and wondering and wondering and wondering when will my life begin?

ー考えてる 私のこんな暮らしいつまで続くの?ー

直訳:いつ私の人生は始まるの?と不思議に思って、不思議に思って、不思議に思って、不思議に思い続けている。


 そう、『自由への扉』を開くという事は、正に"when will my life begin"。自分の人生が始まる時なのだろう。

 ラプンツエルにとってのそれは、塔の外へ出て、お祭りを観に行くという夢を実現する事。今は毎日、正に、もつれた長い長い髪の毛のごとく”tangled"(『塔の上のラプンツェルの原題』)な毎日を送っている。先が見えない、同じ毎日の繰り返し。夢のために始動できるかどうかもわからない、あてのない、ただ想像だけが膨らむ日々。非常に、自己から疎外された、不自由さ。


 題はそれぞれ、個を大切にするアメリカらしい原題に、しがらみを大切にする日本らしい訳かもしれない。


 私は、次は『仕事をするママ』の姿を娘に見せてあげたいし、又、お給料で両親にお寿司をごちそうする、という目標を叶えるためもあり、再び働き始めたいと考えている。

 ひとつひとつ、山を乗り越えて、tangledなしがらみを切り抜けて、そうして自由への扉を開き、my lifeを手に入れてゆく・・・人生はその連続なのかもしれない。

I can't really explain it. I haven't got the words.

It's a feeling that you can't control.

I suppose it's like forgetting losing who you are.

And at the same time, something makes you whole.

It's like that there's a music playing in your ear, and I'm listening and I'm listening.

And I disappear, and then I feel a change like a fire deep inside.

Something bursting me wide open impossible to hide.

Like electricity, electricity.

Sparkes inside of me. 

And I'm free. I'm free.

正確には説明できない。何て言えばいいんだろう。

自分で抑えきれない感情なんだ。

たぶん、自分が誰なのか忘れて、そして失ってゆくみたいな

同時に、本当の自分にしてくれるような。

まるで、耳に流れ続ける音楽があって、僕は、それを聴いている、聴いている。

それから、僕は消えて、そして、僕は変化を感じる。心の中に火が起こるように。

何かが押し寄せてきて広く開くんです。それはもう隠しきれない。

まるで、電気。電気が、僕の中ではじける。

そして、自由。自由になる。


It's a bit like being angry,

It's a bit like being scared.

Confused and all mixed up and mad as hell.

It's like when you've been crying, and you're empty and you're full.

I don't know what it is. It's hard to tell.

It's like that there's some music playing in your ear.

But the music is impossible, impossible to hear.

But then I feel it move me like a burning deep inside.

Something bursting me wide open. Impossible to hide.

And suddenly I'm flying. Flying like a bird.

Like electricity, electricity. 

Sparks inside of me. and I'm free. I'm free!

ちょっと怒りにも似ている。

ちょっと恐ろしくもある。

混乱して、めちゃくちゃに混ざり合って、地獄みたいに狂う。

泣いているみたいに。空っぽになって、そして、満たされる。

なんなのかわからない。伝えるのが難しい。

まる耳に流れ続ける音楽があるみたい。

実は、音楽は聞こえない。聞こえてはいない。

だけど、それが僕を動かす。心の中に火が起こるように。

何かが押し寄せてきて広く開くんです。それはもう隠しきれない。

そうしたら、突然、僕は飛ぶんだ。鳥みたいに、飛ぶんだ。

まるで、電気。電気が僕の中ではじける。

そして、自由。自由になる。


 ミュージカル ビリー・エリオットを観てきました!子役たちの素晴らしさやメッセージの切実さが際立つ、感動かつ大興奮の作品。ずっとずっと、涙がでっぱなしでした!

 今回は、パンフレットにも載っていない、「『ミュージカル ビリー・エリオット』をより興味深く鑑賞できる3つのポイント」と題して、まとめてみたいと思います。


①人気要素3拍子揃った時代背景

 1、80年代

 2、イングランド北部

 3、錆びれた炭鉱町

 この3要素、現代イギリス映画など語るうえでは大人気の要素だと思います。フルモンティやブラスオフ、ニルバイマウスなどなど。つぶれそうな炭鉱と寂れた町、そして、失業間際の炭鉱夫たちとその家族などはよく描かれる題材。

 今回は、イングランド北部の独特な訛りも、日本の舞台での再現を意識したような日本特有の訛りに移し変えされ、興味深かったです。また、地域や階級により全く異なる言葉、例えば、ビリーの父親とロイヤルバレエスクールのアシスタントという、生まれ育ちも階級も全く異なる立場の人間同士が交流を図ろうとする時、お互い喋る事が通じずコミュケーションが成り立たない様子などが面白おかしく表現されていて、絶妙な笑いを誘っていました。


②個性の尊重

 ビリーの友人役でマイケルという男の子が登場するのですが、彼が、女装やお化粧に興味あるゲイっぽい男の子として描かれています。で、「カムカムカムナミーニーナー♪」と、カルチャークラブの歌だと思うのですが、鼻歌など歌っていてるのを私は聞き逃しませんでしたよ!w。まさに、当時ボーイジョージやデビットボーイなど流行っていたのだろうなと想像できるような感じです。もともとこの作品、原作である映画『リトルダンサー』も、「バレエは女のものだ、男ならボクシングだ」のように男女差別のひどさがテーマのひとつで話題となりましたが、非常に保守的なイギリス社会でまだまだ差別が蔓延していた時代の空気感がより通じてきて、そのような中でマイケルのような博愛精神のゲイの男の子の果たす役割は素晴らしかったです。


③映画リトルダンサーへの伏線

 このミュージカル、先述の通り、原作は『リトルダンサー』という映画なのですが、その映画版では、成長した主人公ビリーとして、アダム・クーパーという、実在の、元ロイヤルバレエ所属ダンサーが、これまた実際の舞台作品である『男性版 白鳥の湖』の姿で出演しています。今回の『ミュージカル ビリーエリオット』では、それに至るまでの伏線かのように、『白鳥』の踊りが効果的に使われているのです。ビリーがダンスに興味を持った時に見せる手の動きが白鳥の首から頭部にかけての動きを彷彿とさせたり、又、夢の中で、大人になった想定のビリーと一緒に、クラシックバレエ『白鳥の湖』の音楽で踊ってみたり。

 観ていて、小さなビリーと、映画で観た大人のビリー(アダム・クーパー)の白鳥とを重ね合わせ、ニヤニヤしてしまいました☆


 以上、3つのポイントをまとめてみました!宜しければ、是非、皆様ご覧になって下さいね!

Almost heaven, West Virginia

Blue Ridge Mountains, Shenandoah River.

Life is old there, older than the trees

Younger than the mountains, growin' like a breeze


*Country roads, take me home

to the place I belong

West Virginia, mountains mama

Take me home, country roads

 

All my memories gather round her

Miner's lady, stranger to blue water

Dark and dusty, painted on the sky

Misty taste of moonshine, teardrop in my eyes


*繰り返し


I hear her voice in the morning hour, she calls me 

The radio reminds me of my home far away

Driving down the road I get a feeling

that I should've been home yesterday, yesterday

* 繰り返し


まるで天国みたいだ、ウエストヴァージニアは。

ブルーリッジ山脈、シェナンドー川。

古くからの生活、木々よりも古い。

山々よりは若くて、時を風のように経てゆく。


田舎道よ、家へ連れて行っておくれ。

私がいるべき場所へ。

ウエストヴァージニア、母なる山脈。

故郷へ連れて行って。田舎道よ。


全ての思い出は彼女を中心に集まる。

鉱山の女。水辺を知らない。

暗くて薄汚れた色が空を染める

月は霧がかかったようで、私の目には涙が浮かぶ。


朝、彼女の声が聞こえる。彼女は呼ぶ。

かかっているラジオで、故郷は遠くなったと知る。

道を進んで、私はこんな風に気づく。

昨日、昨日、家に帰ればよかったと。


 今回は、ジョン・デンバーの1971年の歌を取り上げてみる。カラオケでも非常に人気高い曲で、日本語版は、ジブリ映画『耳をすませば』の劇中歌にもなっている。 


 オリジナルは、まるでアメリカンクラシックなウエスタンソングのようにも聞こえる。私の中では、「見たことない山々や川を気楽に眺めながら、のんびりその日を旅しよう、時に、遠く離れた故郷が愛おしく、懐かしくもなるけれど、そのうち出会える自分の新たな居場所・・・」というようなノリの歌に聞こえるくらいのどかでゆったりとした曲調だ。


 私事だが、結婚して約10年、追って両親が移り住んできて早3年近くになる。要するに、私は、実家を、故郷を失ってしまった類だ。故郷は、心にあって思うもの・・・と造語を作り特に感傷に浸るわけでもないけれど、勿論、やはり何の感情がないわけでは全くない。そう、この曲、カントリーロードを歌えば、やはり涙くらい出てしまいそうになってしまうくらい・・・?ぐっと胸を心の底からつかまれて、曲調に反して気分はかき乱される思いだ。


 ・・・さて、本題に戻ってみる。アメリカは、言わずと知れた移民の国。大体が、故郷を後に残し海を越え、新天地を求め入国してきた者達が作り上げた。戻るわけにはいかない、見るべきは前のみ。進むのみ・・・帰る所がない、とは、どういう事だろうか、と、いざとなると『日本』という国に帰属する私はふと考えるが、故郷を遠く残し出発した気持ちは幾分か分かる気もする。


 ちなみに、日本語詞は以下の通り。あまりにオリジナルとは違う、ほぼ別の歌詞になっているのに、随分違和感を感じていた。が、両親がやってきて、実家はじめ帰る故郷がなくなった今、急に親近感を覚えるようになった・・・相変わらず拙いかもしれないが私のカラオケ音源もあるので、一緒にアップさせて頂きます。


*カントリーロード、この道 ずっと行けば あの街に続いてる気がする カントリーロード


ひとりぼっち 恐れずに 生きようと夢見てた 

寂しさ押し込めて、強い自分を守っていこう

*繰り返し


歩き疲れ 佇むと、浮かんでくる故郷の街

丘をまく坂の道、そんな僕を叱っている

*繰り返し


どんなくじけそうな時だって、決して涙は見せないで

心なしか歩調が速くなっていく、思い出消すため


カントリーロード この道 故郷へ続いても、

僕は行かないさ、行けない、カントリーロード


カントリーロード、明日は、いつもの僕さ

帰りたい 帰れない

さよなら カントリーロード


 how do you document real life when real life 's getting more like fiction each day. headlines, bread-lines  brow my mind and now this deadline "eviction or pay". rent.

 how do you leave the past behind when it keeps finding ways to get to your heart. it reaches way down deep and tears you inside out till you are apart. rent.

 how can you connect in an age where strangers, landlords, lovers, your own blood cells betray. what binds the fabric together when the raging, shifting winds of change keep ripping away.

 draw a line in the sand and then make a stand. 

 use your camera to spar.

 use your guitar.

 when they act tough, you call their bluff.

 どうすれば現実を撮影できる?現実が日に日に非現実的になっていく時。最新ニュースが、配給の列が、心を吹き抜ける。そして今「立ち退きか支払いか」の締め切りが。賃貸料。

 どうすれば過去から抜け出せる?まだ心が過去に囚われている時。心の深い所までそれは入り込んできて、内側から、お前がばらばらになるまで引き裂いてくる。賃貸料。

 見知らぬ奴らが、大家が、恋人が、自分自身の血の細胞までが裏切ってくこの時代、どうすれば繋がれる?変化の風が物凄い勢いで巻き起こり入れ替わるこの時、何がこの構造もろとも縛り付ける?

砂の上に線を引け、そしてお前の立ち位置を決めろ。

論じるためにお前のカメラを使え

お前のギターを使え

奴らが強いなら、お前ははったりで押し通せ

ーミュージカル『RENT』より(以下の挿入歌詞も同じ。)


 森アートミュージアムで開催されていた、キース・へリング展へ行ってきた。キース・へリング流ストリート・アートの思考、活動をまとめて振り返ると共に、80年代のNYの勢い、息吹といった雰囲気を垣間見れる展覧会だった。

 それは、主に、彼の作風が、当時流行したエイズ或いは死への恐怖から、生への渇望へと変わり、最終的に生の象徴としてアフリカンアートや子供の姿へと興味が移るさまである。その変遷が、いかにストリートのレベルで展開されていったか、そして、死と生という表裏一体の概念の狭間を表現したか、概観出来る内容だ。


 キースは、よく、70年代ポップアートの巨匠アンディ・ウォーホールの後継者だと言われる。なるほど大衆文化に焦点を当てた革命家という点では、そう言っても過言ではない。違う点は、ウオホールが死にとりつかれ、死刑台や早くに死んだアイコンといった死の象徴のような題材をよく取り上げていたのに比べて、へリングは、生への興味が強かったという事だ。アフリカンアートへの造詣や子供への興味がそれを物語る。


 to you and you and you, you, and you. to people living with, living with, living with not dying from disease. let he among us without sin be the first to condemn.

la vie boheme, la vie boheme, la vie boheme.

 anyone out of the mainstream, is anyone in the main stream? anyone alive with a sex drive. tear down the wall aren't we all. the opposite of war isn't peace...it's creation.

 あなたとあなたとあなた、あなた、そしてあなたに。人々が病気で死ぬためではなく、生きるため、生きるため、生きるために。私たちの仲間の罪なき彼を最初の訴えにしよう。

ボヘミア万歳、ボヘミア万歳、ボヘミア万歳。


 展覧会の最後では、東京都多摩市で行われたストリートでのワークショップの模様や、当時の原宿でのストリートカルチャーの記録を観ることができた。へリングのアートはこうやって世界中に普及され、また、後継者を育んでいるのだという事を知ることが出来るような気がした。


 dying in America at the end of the millennium. we are dying in America to come into our own.

and when you are dying in America at the end of the millennium, you are not alone. I'm not alone. I'm not alone.

 今世紀の終わりに、アメリカで死ぬという事。俺たちは、本当の俺たち自身のなるためにアメリカで死ぬ。

そして、今世紀の終わりにお前がアメリカで死ぬ時、お前は一人じゃない。俺は独りじゃない。俺は独りゃない。

 The convention of perspective, which is unique to European art and which was first established in the early Renaissance, centers everything on the eye of the beholder. It is like a beam from lighthouse - only instead light travelling outwards, appearances travel in. The conventions called those appearances "reality". Perspective makes the single eye in center of the visible world. Everything converges on to the eye as to the vanishing point of infinity.

 - "Ways of Seeing" John Berger. 1977

 ールネッサンス初期に確立されて以後、西洋絵画独特である遠近法に関して言われている事は、その人の目にすべてが集中するという事である。まるで灯台が放つ光線のよう。ー外枠をなぞる明かり以外は、見えるものは入り込んでくる。いわゆる『現実』というものたちだ。遠近法は、片目を、目に見える世界の中心に変える。無限大に消失点が出来るように、全ては目に集約される。



 宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』を観た感想を今更だが記しておこうと思う。しばしば耳にする評判を頼りに、私なりに心して ーある種の覚悟のようなものを決めー 足を運んだ。なぜなら、いつも以上に、何かしらの並々ならぬ宮崎監督の意欲やメッセージ性を感じてならなかったから・・・。

 そう、これは、2013年の『風立ちぬ』で、一回引退を決意した監督が再びメガホンをとってまで作製した作品である。一度は絶筆に至った人が、再度復帰する・・・まるで「このまま”隠居”など、ましてや死ねなどしない、言いたいこと伝えたいこと絵にしたいことは、まだまだ山ほどある」とでも言いたいような、アニメ作家として、映画にしなければならないという、突き動かされる使命感のようなものを感じた。なるほど復帰は、遡ってみれば2016年に決心したらしい。結果、作品は2023年公開となったわけなのだから、実に7年もの長い歳月がそこにかけられている。突発的な安直な思いでできた作品ではない事は、そこからも容易に想像できる。これは観る側も、それ相応の心の準備が必要であるはず・・・

 と、いうわけで、勇んで向かったところ・・・本当に、裏切らない、情熱溢れこぼれる力作だったと思う。


 まず、映像美。私は、ジブリ作品を劇場で最後に観たのは、2010年の『仮ぐらしのアリエッティ』だったが、それでもとても美しい風景が続く精細な作品だったのに、今回は更に進化していたと思う。この監督の意欲は、技術は、きっと、死ぬ間際まで、一生成長し続けるものなのかもしれない。本当に感動する。


 さて、ストーリーは、監督の記憶のような場面から始まる。子供の頃の思い出、そして、夢想したであろう世界のようなシーンが続く・・・。それらは、決して綺麗なものではなく、汚いような、ずるいよう現実も多い。人間の業というか、人間臭さというか、そういった負の過去に改めて向き合うかのようだ。それから、経験してきたり、影響を受けてきた絵画や映画の世界観、場面と思われるようなシーンが次から次へと矢継ぎ早に展開してゆく。まるで、監督の脳裏をよぎってやむことのない記憶が溢れこぼれ出て、その断片断片を視覚化して繋ぎ合わせ、映画の世界へ解き放っているかのようだ。

 その結果、そこには深いメッセージが発生することに。「自分はこういうものを見て、聞いて、考えてきた。君たちはどう生きるか?」という、今まさに発信しなければという切なる想い。2016年に構想が始まり、2023年にリリースなわけだが、奇しくも、コロナや戦争や、様々な多角的な社会情勢問題が予期せず発生した今だからこそ、より響くものとなっている。7年の構想期間という時を経て、まるで予言のように、今この時代にマッチしたのだから運命的なものを感じる。

 なんだか監督の集大成のような作品を目にしている気分になってくる。そういうわけで、ずっと胸が詰まる思いで泣きそうになりながら観ていたのだが、監督が求めているのはきっとそういう涙ではないのだろうというのは想像がつく。それより、泣く暇があったら、すべきこと、できることを考え、行動に移す。まさに、「君たちはどう生きるか」なのだ。


 監督は、考えるべきことを考え、映画という媒体を通し、私たちに共有を求める。自分ひとりでは生きられない、自分ひとりでは目指せない夢・・・映画を通して、作る輪、引き渡すバトン・・・それは、主題歌の『地球儀』にヒントがあるようだ。

「ー飽き足らず、思いはせる、飽き足らず、思い描いてゆく、地球儀をまわすようにー」

そう、地球で生きること、地球を守ること。

 ひとりひとりにも、何か出来ることはあるのではないだろうか?監督に復帰を決めさせたこの時代、この映画を観た私たちに、今、バトンは渡されたのだ。



 

 The death drive splits the very ego into one component that is unaware of such drive while being affected by it (that is, its unconscious component) and another component that struggles against it (that is, the megalomaniac ego that negates castration and death and fantasies immortality.)

 -Julia Kristeva "Black Sun" 1989, 

 ー死への衝動は、実に、自我を二つに裂く。一つの要素は、そのような衝動に影響を受けつつも気づかない。(いわゆる無意識と呼ばれる要素だ。)もう一つの要素は、そのような衝動に抵抗して戦う。(消滅や死への抵抗、それから、不滅への幻想などといった誇大妄想のように。)

 people had to adopt themselves to a new and rather strange situation, one that is peculiar to big cities...The pursuer, the crowd, and an unknown man who arranges his walk through London in such a way that he always remains in the middle of the crowd. This unknown man is the flaneur...the flaneur was, above all, someone that does not feel comfortable in his own company. That is why he seeks out the crowd. The flaneur is someone abondoned in the crowd.

 ー人々は、新しい、むしろ奇妙な環境ー大都市特有のーに自分自身を適合させなければならなかった。・・・そのようなわけでロンドン中を歩かんとする、それは追求者であり、群衆であり、或いは見知らぬ人、彼は、常に人々の中心に位置している。この、名もなき人物こそ、フラナー・・・フラナーとは、つまり、自分が属する仲間内では居心地良さを感じられない誰か。それこそが、彼が人ごみに何か求める理由。フラナーとは、群衆に捨てられた誰かなのだ。ー

 ーfrom Walter Benjamin "Charles baudelaire" (from Poe, "The Man on the Crowd")


 埼玉県所沢市 ところざわサクラタウンへ行ってきた。日本最大級のポップカルチャー発信地として2020年にオープン。KADOKAWAと所沢市の共同プロジェクトで、『誰もが住んでみたい、訪れてみたい地域づくり』を進める『COOL JAPAN FOREST構想』の一環として誕生した。近隣には、カフェやチームラボの作品である光のオブジェ『どんぐりの森の呼応する生命』を胞する武蔵野樹林パークがあり、その緑豊かな公園を抜けると、まず、写真にあるような非常にインパクトある大胆な建物、角川武蔵野ミュージアムが目に飛び込んでくる。階段を上ると広い敷地。ミュージアムの他にも、神社、書店、飲食店、ホテル、オフィス、パビリオンなどが点在する。休日などは、広場でショーやフリーマーケットなども行われるらしく、文化推進に貢献する一大エリアとなっているのだ。


 特筆すべく、この巨大な岩のような外見の、不気味なまでの不動感を誇る建物 ー 角川武蔵野、内部は、5階から構成され、日本庭園から漫画図書館、アートギャラリー、レストランなどが入る、いわゆる総合的な文化複合施設だ。

 気になるのは、その大きさに反してエントランスのなんとさり気なく小さい事。思い返せば、別名ロック ミュージアム。なるほど、古代、人間の先祖が初めて住み着いたであろう岩の洞窟にも思えてくる。そうすると、来館者は、その洞窟へと入り込み、知識の発掘探求の旅へと出かけるみたいだー。正に『知の考古学』。そうすると、アートギャラリーは、さしずめ洞窟に残されている人間最初のアートである壁画のようにも見えてくるのではないだろうか。


 さて、お目当ての4階 本棚劇場へと向かう。

 

 エレベーターが開き、降り立つと、様々な種類の本が、ざっくばらんのように陳列され、私達を出迎えてくれる。一応、『記憶の森へ』『世界歴史文化集』『むつかしい本たち』『脳と心とメディア』等々、大きく9項目に分かれて選ばれている本たちらしいが、並べられ方を見てみると種々混在して隣り合い、なかなかの乱読派の本棚のようだ。或いは、来館者100人100様の嗜好の体現化ーリクエストに応えるかのような。


 いずれにしても、個々人の脳内にフラッシュバックする様々の記憶、思い、社会的文化的背景が可視化されていて、ふらふらと眺めて歩くうちに、ふと、今、ここで読みたい一冊に目が留まり、手に取る機会もあるかもしれない・・・新鮮な、一冊との出会いというものを期待してしまう。

 そう、ここは、囲まれた本たちに自己を投影させながら歩みを進め行く、さしずめストリート・・・本は、個々人の脳内を代弁してくれるツール。個々人の気持ちを汲み取ってくれる。そうやって、自分というものを整理しながらフラフラと自由になってゆく・・・。


この日は、アート作品も混在していました。まるで、この本棚の所有者が着ているようなシャツと思考の文面化?本に埋もれたこの方のお部屋にお邪魔させてもらっているような気分?


 そして、奥へ奥へと進んでゆくと・・・


 通称『本棚劇場』!!!

 劇場というと、ギリシャの古代円形劇場や、イギリスのグローブ座を思い浮かべるが、なるほど、ここは、そのような、地球上で繰り広げられている人間社会の縮図という演劇が見られる劇場なのか・・・本をもって小さなひとつの世界を作り上げている。同時に、今度は本が観客となって、彷徨いこんできた来訪者たちを見下ろしているかのよう・・・



 全く違う興味や考えの雑多な人間たちが隣り合い、交差し合い、それぞれの興味の赴くまま本を手に取り、楽しみ、そんな自分を振り返り、向き合う場。

 この、人類の知のアーカイブの中奥深く、劇場は今日も、知の発掘を求め入り込んでくる人々を誘うのだろう・・・。

 ちなみに、私は母と一緒に出掛けたのだが、各々ふと手に取った本はー文芸書『沖縄の女性俳人』と、漫画『おかあさんライフ』だった・・・。記念すべき書籍との素敵な出会いに感謝。

以下、ロンドン ナショナルポートレートギャラリー ホームページより抜粋。

 We tell the story of Britain through portraits, using art to bring history to life and explore living today.

 当美術館は、肖像画という芸術を通してイギリスの歴史を普及し、そして、その話しを日常生活に取り入れる事で今日の生き方を模索します。


 We look after the world's greatest collection of portraits. Spanning six centuries, our artworks reveal the inspireing and sometimes surprising personal stories that have shaped, and continue to shape a nation - from global icons to local champions, national treaures to unsung heroes.

 当館では、世界最大の肖像画を収蔵しています。6世紀の間、それら肖像画たちは、影響力高い、時に驚くべき個人の話しを語り ー国際的な象徴から、地域に根差した勝者達、国宝級の人々から名も知れぬ勇者達までー そしてそれらは、国のありかたまでをも決定づけ続けてきています。


 We are also passionate about portraiture, always progressing our art form, championing artists and encouraging creativity. We celebrate the power of portraiture to create person-to-person connections and the experiences we provide offer encounters with some of the world's greatest artists as well as the very vest in contemporeary art.

 当館はまた、常に芸術形態を押し進め、芸術家達を擁護して彼らの創作活動を後押しするような肖像に注目しています。人と人を結び付ける肖像の力を歓迎し、又、当館での経験は、最新の現代美術や、世界中の優れた芸術家達との出会いを約束します。


Our story

 The Gallery was founded in 1856 with the aim of collecting portraits of "the most eminent persons in British history". The original Trustees agreed "to look at the celebriti of the person represented rather than the merit of the artist" but also took the view that achievement would sometimes be tempered by human fallibility accepting that "great faults and errors" should not excluded individuals from inclusion.

私達の話し

 私達は、「大英帝国の歴史において最も卓越した人物」の肖像画を収集する事を目的に、1856年に設立。初代の理事は、「芸術家の利益よりもむしろ、象徴的で選ばれた人物を鑑賞するという事」に賛同、それだけでなく、時に成功とは「重大な間違えや失敗」を知った上での人間の過失から引き起こされるものだという観点のもと、排除する訳にはいかない個人をも内包します。


The role remain the same today - telling the story of the nation through the people who shape it - although we have broadened our understanding of achievement to reflect the diversity and dynamism of contemporary culture.

その役割は今日でも同様に果たされていますー国の話しを、それを彩った人々を通して伝えてゆく事ー勿論、現代文化に見られる多様性や発展へ影響を与えた成功に対する理解も考慮します。 


As we look back at our history, we can see that different ages have celebrated different accomplishuments and values and now our Collection provides a unique way to understand the past through people and the context they lived in the time before widespread access to photography, and to explore their experiences and influence on the nation.

 歴史を振り返ると、それぞれの時代においてそれぞれの功績や価値が見て取れ、そして今、私達の収蔵品は、その広範な写真作品への研究方法を前に、人々や背景が生きた過去を通して特別な解釈を提示し、更に、彼らが国で経験し、又、国に与えた影響を掘り起こします。


Another important development has been the increasing importance given to art and art history, leading to the Gallery's role as piace to learn about the art of portraiture, promoting an appreciation of the art form, championing artists from all over the world and encouraging creativity. Our collection of over 215,000 portraits and our world-class exhibition programme now showcase the work of some of the world's greatest artists as well as the very best in contemporary art.

 もう一つの重要な発展は、芸術や美術史への貢献です。肖像画という芸術についての学び、芸術形態を認める事の促進、世界中の優れた芸術家を奨励し、創作活動を応援する事など、博物館の役割への誘いです。215,000点の肖像画の収蔵品や世界レベルの展示内容は、最先端の現代美術と同時に世界の卓越した芸術家を一同に見られる場となっています。

 


ー・・・という訳で、我が家の小さな小さな画伯による肖像画展覧会を・・・。これが令和生まれの肖像画!見事に親のメモをもみくちゃに使っておりますね・・・。

 正直、ロンドン留学中は、「人の顔見てなんになる?」などと生意気にもナショナルポートレートギャラリーの意義もわからず一度も訪れなかった。しかし今、後悔極まりない・・・。顔に歴史あり、である、まさに。顔こそが面白い。顔が個性となる。ポートレートとはそれだけではない。衣装、ポーズ、調度品、要するにその人物がどのように切り取られどのようなプロデュースで描かれるか、人に与える印象を決定づけるか、面白いではないかと最近とみに思う様になり、このナショナルポートレートギャラリーの、その切り口や着眼点、独創性に改めて敬意を表したくなりました・・・!次にまたロンドンに行く機会があったら、是非、一番に行ってみよう!

 

・・・ー女が男でも男が女でも。司教がバルジャンでもバルジャンが司教でもー

という訳で、本当にふと思い立ち、言わずと知れた、ミュージカル レミゼラブルより一場面を歌ってみた。お相手は歌うまユーザーネームヒツジさんです。

私は、怒りっぽく、情緒不安定で神経質。すぐにネガティブになり、しかもそれらの感情を消化するのが下手。けっこう根に持つタイプだ。

ふと思い立ったのが、レミゼラブルの一場面、ジャンバルジャンがとある教会に迎え入れられ、そこの司教と運命の出会いを果たす場面だ。この司教、出番はこのシーンしかなくしかも本当にさらっと短い。が、改めて考えると、作品の、舞台の、観客の・・・総じて人間模様の縮図の、全ての代弁となる、非常に重要な場面なのだ。

パンひとつ盗んだ罪で19年もの間投獄され、ようやく仮釈放となるが世間の冷たい偏見に仕事にもろくな食事にもありつけず、人としての心を失うバルジャン。そこに救いの手を差し伸べる司教。司教は、バルジャンにパンとワインを提供し、寝床も貸す。が、バルジャンは司教の優しさをあざ笑うかのように高価な食器類を盗み逃げる。警察に捕まったバルジャンを「この食器類は私が譲ったものです」と、かばう司教。その上、より高価な銀の燭台を提供する事で、バルジャンを警察から自由にする。

私の推測では、この司教は、バルジャンはおそらく裏切り、盗みを働いて逃げるだろうと察していたのではないかと思う。司教とて、そんなおひとよしではない。それではなぜバルジャンを赦したか?それどころか、どうして警察に嘘をつき、法的に共犯とまでなったか。そこが私の学んでみたい点だったが、それは、きっと、司教がやはり希望を見たかったのではないかと思う。

「さて、我が兄弟」と司教は語りかける。「兄弟」つまり、自分はあなたと同類だと。私も罪ある人間で、いつあなたのように投獄される身になるか、いつ、盗みを働く身になるか知れない・・・と。私も神に背く要素のあるただのヒトだと。しかし、だから、日々告白し、神に赦しを求め、そして、人々を説く。司教は、聖職者として、希望をバルジャンに与え、自らも希望をバルジャンから受け取りたかったのではないだろうか。

その、優しさ、勇気、尊厳。私も少しは学びたいとなんとわなしに思いだし、男性が演じる司教を今回歌ってみたという訳だ。

いつ、どのタイミングで被害者とも加害者ともなり得るこの時代。この地球で、いつまでも人を赦し自分も赦されてゆく人間でいられるよう・・・おこがましいが、少しでも何か得られればと思い・・・。

是非、優しいお耳で聴いて頂ければ。

埼玉県さいたま市の鉄道博物館へ行ってきました!大宮には、かつて、蒸気機関車や電車の整備工場としての国鉄大宮工場が存在しました。つまり、大宮は鉄道で発展した町と言っても過言ではない、まぎれもなく鉄道の町なんですね!


とても大胆な、壮観な博物館でした。これは鉄道ファンならずとも見ごたえ充分。明治から現代までの、実際に走っていた車両を一堂に見る事ができて、本当に素晴らしい!ひとたび車両に乗り込んでみれば、そのほのかに薄暗い明かりや、使い込まれた座席、床に誘われて、あっという間にタイムスリップするかのようで、時を忘れます・・・。

ランチも、鉄道員達のまかないであったハチクマライスなどが食べられるカジュアルな食堂から、実際の高級食堂車で提供されていた洋食を本格的な雰囲気の中で頂けるレストランまで、豪華なチョイス!

ちょっと行けなかったけれど、他にも運転体験や、連結などの見学、それから勿論、様々な学習スペース(ギャラリー、シアター、ライブラリーなどなど)も存分に楽しめます。一日では見切れない程です!

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最近、3歳の子供と一緒に英語の童謡をCDで聴いているのですが、その中に、あの『線路は続くよどこまでも』があります。原題は”I've been working on the railroad"なんですが、これが、幼い頃からよく知っている日本語版とは、まあ全然違う内容で、私は軽い疑問?を感じていたんですね。そこで、今回はちょっと原曲について考えてみようと思います・・・。


I've been working on the railroad,

all the live long day.

I've been working on the railroad,

just to pass the time away.

don't you hear the whistle blowing, rise up so early in the morn.

don't you hear the captain shouting.

Dinah, blow your horn!


Dinah, won't you blow? Dinah, won't you blow? Dinah, won't you blow your horn?

Dinah, won't you blow? Dinah, won't you blow? Dinah, won't you blow your horn?


Someones in the kitchen with Dinah, someones in the kitchen, I know oh oh oh.

Someones in the kitchen with Dinah, strummin on the old banjo.

fee fit fiddleeio.

fee fit fiddleelo oh oh oh,

fee fi fiddleeio, strummin on the old banjo.


someone's makin' love to dinah

someone's making love I know

someone's making love to Dinah

cause I can't hear the old banjo.


俺は、線路で働いているんだ。

長い丸一日。

俺は、線路で働いているんだ。

ただ時間は過ぎ去ってゆく。

笛の音が鳴るのが聞こえないか?朝早くから、起きろと。

キャプテンが怒鳴るのが聞こえないか?

ダイナ、ラッパを吹けと。


ダイナ、ラッパを吹かないのか?ダイナ、ラッパを吹かないのか?ダイナ、ラッパを吹かないのか?

ダイナ、ラッパを吹かないのか?ダイナ、ラッパを吹かないのか?ダイナ、ラッパを吹かないのか?


誰かがダイナと台所にいる。誰かがダイナと台所にいる。おれは知っている。

誰かがダイナを台所にいる。古いバンジョーをかき鳴らしながら。

フィーフィッ、フィードロー

フィーフィッ、フィードロー

フィーフィッ、フィードロー。古いバンジョーをかき鳴らしながら。


誰かがダイナと愛し合っている。

誰かと愛し合っている。俺にはわかるんだ。

誰かがダイナと愛し合っている。

なぜって、あの古いバンジョーが聞こえてこないからさ。



実はこれ、1863年から始まったアメリカ大陸横断鉄道建設に携わったアイルランド系工夫達によって歌われ始めたらしいんですね。大陸横断は、ちょうど西部開拓時代、西へ西へと延びてゆくとても重要な、国として威信をかけた事業だった事でしょう。しかし一方で、働き手は随分と手荒に扱われたり、大変な危険を冒しながらの過酷な労働だったと思われます。その上、時は南北戦争真っただ中。戦争の疲弊や矛盾、違和感も多々あったご時世の事でしょう。この歌も、とても皮肉げに、ある意味洒落から、生まれたのかもしれませんね。汗水流して鞭うたれての重労働の果てに、可愛い女性は、お気楽に情事を楽しんでいる・・・しかも、バンジョーとはアイルランドの楽器ではないことから、見も知らぬ全く仲間ではないどこかの奴と・・・という感じですよね。愚痴を吐き出しながら身に鞭打って働く哀しくも滑稽で強い歌となっています・・・・。


さて、それでは私達がよく知る、あの日本語訳版はどうだったかというと、1960年代以降なので、時代はいわゆる高度成長期前夜。一般市民の生活水準は上がり始め、日常に少しゆとりが出始めた頃かもしれません。そこで、目を向けられたのが子供の教育だったのでしょう。だから、ただただ健やかに夢いっぱいの歌詞となったのかもしれませんね。





いずれにしても、鉄道って、コツコツとした地道な労働によってもたらされる浪漫や憧れの象徴・・・に、思えてきます。





そんなこんなに想いを馳せながら〜・・・
ランチは大宮ナポリタン♪

ギフトショップもおしゃれで充実していました😄💞💞💞
是非、日本全国から皆様に来てほしい、独自の博物館だと思いました!想像以上の感動です!