aya-kobayashi-manita 's 翻訳 Try It !

『荒井伸佳展』~復活エッセイ②~

2003年7月14日

ギャラリー北村 荒井伸佳 展

(2003年、荒井伸佳展への感想文。これも、当時の文章のまま、掲載させて頂きます。ギャラリースペースの天井から鉄のようなもので出来たモビールが幾つもぶら下がっている作品でした。画像資料がなく申し訳ありません。)


 天井から吊るされ、垂れ下がる鉄のモビール。「空間」という“有”にそれらの「無意味」である“有”の“無”を足す事で、結果はどう導けるのか。もともと何もなかった場所にギャラリーというスペースが生まれ、更に「アート」という展示物を備える事で人はそこを芸術空間と呼ぶ。その、人間の創造の蓄積。無に生まれ有になり、そこに有が作り出される。例えそれが無意味な有だとしても、それは創り出された何かなのだろうか。創造なのか、無に全てを戻す行為なのか。それとも今だ行為の最中なのか。そこに目的はあるのか。モビールを吊るすという行為そのものに意味を求めているのか。今回の企画は、最終的に有で終わっているのか、無に帰しているのか、それとも、どちらととも答えなど求めているのではなく、それどころか今だ“結果”などに辿り着いているのではなく、途中経過を見せられているのか。疑問は残る。いや、「途中経過」などと、ゴールが明確に定義付けられているのならそのような呼称の段階も考えられるが、それよりも前に、まず、本当に始まりの地点すらもあったか不確かなのに、つまり、始まりも終わりも無いのなら、それをつなぐと考えられる「今現在」の行為も、私には、見えない。

 でも何時の間にか物事というのは「始まっていた。」ならばそこに創り出「さなければならない」。創造は、義務、というより、性なのか。例えその創造が実験で終わり何の有益な利益をもたらさなくても。或いは、その創造が無意味なもので事象を0にする事でも。有に有を足すのではなく、有に対する侵略だとしても。

 荒井の作品は、有なのか、無なのか。在るのか、不可視なのか。居るのか、居させられているのか。

 とりあえず空間に「変化」はもたらされている。それが出発としてのきっかけなのか、それ以前に、解体のための出現なのか、それは見る人によって捕らえられ方も変わるのだろうが、きっと、その「変化」を起こした事にこそまず敬服し、期待すべきなのだろう。それがなんのためなのか、その後どうなる事を見込んでいるのか、それらは今回の場合、きっと愚問なのだろう。吊るされ、地に触れるにも満たない、おぼつかない足元は、ぶらりぶらりと空に揺れる。

aya-kobayashi-manita 's 翻訳 Try It ! ~pupils with heart~

こんにちは。学生時代、文化史と美術史を専攻した後(ロンドン留学含む)、美術館学芸業務補助を経て、カルチャースクール勤務。現在、在宅で翻訳の勉強中。主に、①芸術事の感想(展覧会、舞台、映画、小説など)、②英語で書かれた世界各国の美術館図録や美術評論、③英語圏の絵本や児童文学、文芸作品、④英語の歌詞、⑤趣味の朗読やよみきかせ、歌、⑥日常の散歩や旅行記、生活の一コマなど・・日英語で記してゆきたいです。

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