aya-kobayashi-manita 's 翻訳 Try It !

Sam Taylor Wood 『TO BE OR NOT TO BE』~復活エッセイ①~

25, February, 02 : 資生堂ギャラリー

 Sam Taylor Wood : TO BE OR NOT TO BE

  

 (以下は、2002年資生堂ギャラリーで行われたSam Taylor Wood『TO BE OR NOT TO BE』展への感想文である。当時、書いた文章がそのままドキュメントに残っていたので、まだつたない段階のもので恥ずかしいのだが、復活エッセイと銘打って、掲載させて頂きます。)

 

 サム テイラー ウッドといえば、98年のターナープライズにもノミネートされた一連の写真作品、``Five Revolutionary Seconds’’ をまず思い出す。まるで、360度カメラを回して、彼女の視界に入る全ての世界を忠実に抜き取ったような、その作品。映っているのは、至って普通の人々の、普通の日常の一こまのように見える。時々テイラーウッド本人も出演している為、最初は、「何気ない日常生活に今一度視線を向ける事で発見できる、忘れかけていたオリジナリティー」というような意味合いの、いわゆる「自己探求」的な作品なのかと思っていた。

 しかし、それは大きな間違いである。それどころか、実際はその逆であった。一見「自己探求」を夢見てもがくかたぎな芸術家を装う事で、彼女は、平然とその裏をかいてきている。つまり、とても冷静に、巧妙な手口で、「オリジナリティー」の存在を否定しにかかってきているのだ。

 まず、彼女の作品は、演出された「ドラマ」だ。あたかも、日常生活の中の偶然の一瞬と見せかけておいて、実は、全てが計算づくめの上に作りだされた“一シーン”。役者達を厳密に選択し、衣装を着せ、こだわって選んだ舞台背景となる場所で、立ち位置、ポーズ、更に“役”のキャラクターイメージまで、細かくおろしてゆく。テイラーウッドは、他人の日常のダイレクターとなり、“現実に見せかけた非現実”を演出している、と言えるだろうか。

 更に、彼女の作品で興味深いのは、“ある一部屋での一場面”だけに終わらず、“その場面の延長線上で繰り広げられている出来事”、或いは、その“隣の部屋”、“上(または下)の部屋”で、同時刻に起こっている出来事と思わせる場面へと、必ず写真のイメージを広げている事である。丁度、あるマンションをベランダ側から眺める時、目線はまず、ある特定の部屋の内部に定まり、次にそこから両隣、上下へと移動してゆく様に、テイラーウッドのカメラも縦横自由自在にパンを振っているかのようである。この事によって、テイラーウッドは、登場人物達の相関図、人生模様をも構成する事に成功していると言える。それはとても一瞬では追いつけない絵巻物語のようで、目をくらませる。と同時に、私達は、その様な他人の世界を覗き見する目撃者の気分にさせられているのだ。もしかしたらテイラーウッドは、ある日の自分の心理状態や、見も知らぬ通りすがりの他人にふと垣間見たドラマを写真という手段で「再現」し、観る者達をその共犯に巻き込んでいるのかもしれない。人が他人と出会い、お互いのプライベートに関わる時、どれだけ相手の領域に立ち入るか、どれだけ自分の領域を開放するか、かけひきが生まれる。守るか侵犯されるか、はたまた妥協し合うか、それは人間社会で常に起きている免れ得ない戦い。もしも、その様な人間的に基本的な日常行為までもが、自分の意思とは全く無縁の、操作されていたものだったのならば…テイラーウッドは、その疑問を静かな目で表現する事で、自己を、あくまで「渦中」から距離をとった位置に存在させようとする。同時に、観る者を自己の世界に引きずり込み、あるいは、観る者の内部へと不法侵入を図り、今度はその鑑賞者との戦いに挑む。この事によって、テイラーウッドと役者達、テイラーウッドと鑑賞者達、役者達と鑑賞者達、というまた新たな自己と他者の関係が成り立つのである。彼女の手によりまず作品が、そしてギャラリー全体が、私達が、次から次へとお膳たてされ、更に演出された私達がその思いを胸にそれぞれの“日常”へと帰って行く。こうして彼女は自分の関係網を広げてゆき、その成り行きをまた静かに見つめているようだ。

 この思いは今回出展されている“Soliloquy”シリーズで益々明確なものとなった。“Soliloquy”シリーズは、“Five Revolutionary Seconds”の 基本を更に発展させた応用変とも言えよう。“Five Revolutionary Seconds”と同じ様なパノラマ写真の上部に、“Soliloquy”では、一人の人間が意味ありげに配置されている。つまりパノラマに繰り広げられているドラマの発想人、“人間関係図”の主人公が明確に示されているのだ。よって“Five~”では当てもなく動かしていなければならなかった視線を“Soliloquy”では集中させる事が出来る。テイラーウッドは、誰のどのような関係を表したいのか、より正確に観る者に提出したという事か。同時に、これは“役者達―テイラーウッドー観る者”という三者の関係にもうひとつ新たな関係を加わえ、“役者―役者の世界―テイラーウッドー観る者”と更に複雑化させた事を意味しているのだ。例えば“SoliloquyⅤ” では、一人の男が“主人公”に据えられ、その下には人気の無いがらんとした地下駐車場がある。

             SoliloquyⅤ, 1998, C-type color print, 225×257cm

           

男はロンドンの裏道をうつむき加減に歩いている。彼に落ちる影。観る者は、ここで自分達もロンドンの裏道を歩き、たったもう男とすれ違いざまになる瞬間を擬似体験させられることになる。それが“私”と“男”の出会い。そこで“私”は“男”の許す限り境界線を越え、彼の空間に立ち入ってしまう。彼の心の内―その想像が、不気味な程空っぽの地下駐車場となってあらわされているのである。もしこれが男だけの写真だったならば、観る者との間に何の関係も生まれない。男と地下駐車場、この2種の映像を一つにすることで、テイラーウッドは先に述べた新たな人間関係を自然に生じさせる事に成功している。私達は、テイラーウッドの視線、男のドラマ、そしてその世界、という他人の関係に、それぞれ自己の事情をもって巻き添えになるのだ。この独特な“覗き”心理は、“SoliloquyⅣ”でも明らかだ。まず、淫らに口をあけ横たわる女の豊満な胸が目に飛び込んでくる。嫌が応でも“見てみたい”という欲望ととまどいが、私達の間に生まれるだろう。ふと下に視線を向けてみれば、なるほど好奇心に勝てず女を凝視している人物がすでに数人。その姿はギャラリーに来てこの作品の前で足を止めている私達と重なる。しかしここで気づく。私達も、見られている?女を見ていると思っていたその人物達の視線の先は、実は外側の私達に向けられている、とも言えるではないか。

             SoliloquyⅣ, 1998, C-type color print, 222×257

 

 覗き見されている女。覗き見する人間。覗き見する人間を覗き見する人間。それをまた遠巻きに眺める人間。テイラーウッドに試されているかのようにドラマは果てしなく広がって行く。こうして彼女は、第三者的立場にポジションを構え、私達をチェスのコマに、チェスを楽しむのである。

 役者と監督、衣装と舞台設定、見せる者と見られる者、そして、そのいつどのように逆転するか変化するか知れないそれぞれの立場のあいまいさ…この、テイラーウッド独特の、極めて大げさな演劇的操作は、一体何に由来するのか、と問うた所でふと彼女のポートレートに思いを馳せる。彼女が自身のカタログでよく使う、なんともうさんくさい、煙に捲かれるようなセルフポートレート。右手に2本足で立つウサギを握り、カメラのシャッターを左手に。最後に右足を少し構えて、ひょうひょうとした表情で立居地に収まっている。まず、その“立ちウサギ”なる代物からしてうそ臭い。(剥製か何かを使っているのか、なんにせよユーモラスな不気味さである。)加えて、テイラーウッドの微妙な曲線を描く全身、それを飾るマニッシュな黒いパンツスーツ、極めつけは、すっとぼけながらもどうも勝ち誇った感のある彼女の口はし。全てが、なるほど完璧なまでに芝居がかっている。それも、この場合舞台には、三次元的現実世界ではない、上下左右そのまま回転させたくなるような、不思議な浮遊感の漂う空気が感じられて仕方がない。そう、丁度スーツの留めてあるボタンあたりを回転軸に、本当に彼女はくるくる回っているのではないか。そして、天も地もなく、写真のフレームの中でいつまでも浮いているのではないだろうか。だが彼女の余裕の笑みが、その不安定さを安定させている。浮遊しているのを認め、受け入れ、自己の自信に変えている。

 今回の展覧会で言えば、正に“The Leap”(2001)が、それに等しい。この作品において不思議なのは、男は、ジャンプしているにも関わらず、非常に安定して見える事である。テイラーウッドのポートレート同様、フレームの中での上下縦横に相対する被写体の位置が、そのポーズやシーンに反して、綺麗に居心地良さそうに、中心に浮いている。一方で、やはり、どこか不自然さを否めない。Uncannyなのである。背景の木々と、男が、お互いマッチしているようでミスマッチ、更には、男がやけに現実になじんでいないロウ人形の様にも見えてきて、一見完璧な構図に徐々に恐怖心が沸いてくる。

 そういえば彼女は、アーティストとして大成する以前に働いていたロンドンのロイヤルオペラハウス衣装部時代の思い出として、この様な事を語っている。

 「衣装部で最高に面白かった事は、表舞台で起こっていることと裏舞台で起こっている事の落差だった。そして興味深い事には、この二つの経験が相互に浸透し合って曖昧になってしまう事。手洗いで手を洗えばワグナーがその伴奏をするし、お茶を注げばロッシーニのコーラスに合わせる事になる。日常の仕草が偉大で英雄的なサウンドトラックのなかで為される。オペラハウスの舞台裏で営まれるなんら筋書きのない生活が、ややもすれば誇張された筋書きを追う生活と入り混じり、日常とオペラ的なものとが一つになる。この同時性をどのように捕らえたらいいのだろうか。同時に緑であり紫である布地をどのように描いたらいいのであろうか。時を同じくした`存在と不在’、この二つをどのようにして折り合いをつけたらいいのだろうか。」

 オペラハウスという、深紅と黄金が輝きを放つ、ブルジョア達の非現実的空間、そこで夜な夜な繰り返される壮大しかし出来すぎたドラマティックなストーリー。テイラーウッドは、きっと毎晩従業員用トイレに行く度に、こもれ聞こえるオペラ歌手の作られた美声と、明らかにわざとらしい観客の咳払いを耳にしながら、考えていたのだろう。私は、今どこにいるのだっけ?と。

 つまり、どうとも断言できないあいまいな“間”、宙ぶらりんの“in―between”が、常に彼女の好奇心の源泉だった。日常生活として非現実を演じるオペラ歌手達、日常を割いて非現実を現実の様に鑑賞する観客達、その様な現実的非現実と裏表の位置で、現実として黙々と日常を実践する裏方達。そしてテイラーウッドは…ふわふわと、漂う。その3者のどれでもない“合間”に。狭間の異次元に。それが彼女の“現実”(存在;TO BE)。だが同時に、どこにも属す事のない“非現実”(不在;NOT TO BE)。だがある意味においてそこは、際限なく自由な場所である。なぜなら何者でもない、どこでもない、誰にも邪魔されない、テイラーウッド以外の者には、見えない、在り得ないジャックポットなのだから。すなわち、不安定な安定した私空間。そこにおいてどれだけの表現力で幾通りの自己になりきるか、すなわちセルフポートレート、を実験できるのか、その存在する不在を写真という手段を味方に更に非現実かの様に現実として見せてゆく、正に今回の展覧会のタイトル“TO BE OR NOT TO BE”にふさわしく、これが、Directorテイラーウッドのドラマメソッドなのだ。


aya-kobayashi-manita 's 翻訳 Try It ! ~pupils with heart~

こんにちは。学生時代、文化史と美術史を専攻した後(ロンドン留学含む)、美術館学芸業務補助を経て、カルチャースクール勤務。現在、在宅で翻訳の勉強中。主に、①芸術事の感想(展覧会、舞台、映画、小説など)、②英語で書かれた世界各国の美術館図録や美術評論、③英語圏の絵本や児童文学、文芸作品、④英語の歌詞、⑤趣味の朗読やよみきかせ、歌、⑥日常の散歩や旅行記、生活の一コマなど・・日英語で記してゆきたいです。

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