aya-kobayashi-manita 's 翻訳 Try It !

映画『Cube』に関する考察 ~復活エッセイ③~

 

(2000年前後に書いた、映画『Cube』に関する私的考察です。どうぞ宜しくお願い致します。)


 モダニズムは今に何を残し教え伝えるのか。過去はどこへ向かうためのものだったのか。本論ではこのような観点から映画“Cube”(1997)を探ってゆく。

 まずストーリーを説明しよう。主要人物は6人。物語は“Cube”と呼ばれる立方体の部屋にこの6人が迷い込んで来るシーンから始まる。そこはどこなのか、いつ、なぜ、どのようにして、どこから彼らはその部屋に来たのか、説明は一切ない。彼ら自信も全く事情を把握しておらず、ただ途方に暮れている。「家の台所にいたはずなのに、気付いたらいつの間にかここにいた」とまるで日常生活から突然、異次元にワープしてきたかのような状況である。明白なのはそれが巨大なビル内の部屋の一つである事、ビルには廊下が無く、ルービックキューブのように四方部屋が隣り合っている事、そして、その中には殺人用の罠が仕掛けられている部屋もある事である。6人は、とりあえずビルから脱出しようと出口を探し始める。

 この時点でまず、これはSFでもファンタジーでもなく、実は私達の現実世界に酷似している事を覚えておきたい。例えば“Cube”というタイトルは、3次元、つまり地球上の空間を示唆していると思われる。そして訳もわからないまま登場人物達が“Cube”にいた点は、地球に偶然生まれ、歴史というストーリーに突然参加を余儀無くされる人間のシチュエーションと重なる。更に“死”に関しても、容赦無く襲いかかる殺人の罠に象徴されている。

 この舞台設定を念頭に映画を見進めると、徐々にある事に気付く。それは、6人の言動の節々に、啓蒙の時代(Enlightenment age)とモダニズム(Modernism) の流れが見え隠れする事である。例えば自己の身に起きた混沌を自覚し、自問自答する彼らの姿は啓蒙の時代を物語り、更に中盤における感情、行動パターンの推移は、モダニズムを彷彿とさせるのである。

 啓蒙の時代とモダニズムの再考、そしてこの二つの時代を経て到達した現在の位置を今一度概観する事。以上を目的に、この映画を更に詳しく解釈して行きたいと思う。

 まず始めに、“啓蒙の時代”“モダニズム”の要点を確認しておきたい。最初に“啓蒙”とは何か、本論ではカントの思想を引用する。

 

 “Enlightenment is man’s release from his self-incurred tutelage. Tutelage is man’s inability to make use of his understanding without direction from another. Self-incurred is this tutelage when its cause lies not in lack of reason but in lack of resolution and courage to use it without direction from another. ‘Have courage to use your own reason!’ – that is the motto of Enlightenment… The public use of one’s own reason must always be free, and it alone can bring about enlightenment among men.”

(「啓蒙とは、自業自得で招き入れた保護からの解放である。ここで言う保護とは、外側からの影響なしでは自己の思考を活かすことの出来ない、人間の無力さを意味する。なぜ自業自得かというと、この保護は、保護を受ける者の理性の欠如を理由に存在するのではなく、外側からの影響なしでは理性を使う勇気と術が欠如しているのを理由に存在する物である為に、言うのである。‘己の道理を施行する勇気を持て!’― これが、啓蒙のモットーである…市民がおのおのの道理を貫く事は、いかなる場合においても自由であるべきはずである。そして、その状態こそのみが、人間における啓蒙の完成をもたらすのである。」)

カントによると啓蒙とは、社会において個々が意見を主張できるまでの知識と勇気、権利を獲得する為の段階と考えられる。結果として、一人一人の共同体における存在価値が成立し、“啓蒙の状態”が導き出されるのである。

 では究極的に何が、この啓蒙普及により実現するのか?ヘーゲルの言葉を借りれば“絶対精神(absolute spirit)”の発見がそれである。ヘーゲルは、歴史を発展しながら上昇して行く一直線のストーリー(Grand Narrative)として唱え、人間による理性的な議論こそがその上昇を高める原動力だと述べている。(まず、啓蒙により、二つの異論、“テーゼ”と“アンチテーゼ”が提唱される。それらを論じ合わせ、論理的な要素のみを汲み取り、融合させる。それが、“ジンテーゼ”として第一段階目の答えとなる。更に、今度はそのジンテーゼがテーゼとなり、また新たに提示されたアンチテーゼと戦わせる。その繰り返しと積み重ねが歴史であり最終的にabsolute spirit、人間にとって最も理想的な状態、究極の理想像にたどり着くと言うのだ。)

さて、この二人の思想の実践がモダニズムだった。自然科学、テクノロジーの発展、文化の隆盛、等、今日モダニズムの所産と呼べるものは、啓蒙による人間主体という意識の徹底化から、実現されたものだと言っても過言ではないだろう。

 以上を前提に、いよいよ“Cube”に目を向ける。一番目に注目したいのは登場人物達が最初に取った行動である。彼らは“考え”始めたのだった。

 記述したように、彼らの陥いった状況というのは非常に不条理なものだった。そこで彼らは、記憶をたどり、Cubeに来る以前にいた状況をそれぞれ口にし合う。つまり、原因の探求、経緯の整理、自己の立場の確認、と続くのである。その上で第二に取った行動は、“議論”である。各々特徴を活かし、協力し合おうと話し合いが始まる。例えばそこには警察官の男がいた。彼はグループのリードを買って出る。又、看護資格を持つ女がいた。彼女は皆のメンタリティーをケアする役となる。言い換えれば、彼らは職業や特技を存在意味とみなし、自己の理由を自ら納得させ始めたのだった。

 これらの行為 -理由を駆使し意味を求める。或いは思考により混乱を解決させる信念― は明らかにカントの理論に則している。更にもう一つ、“支配からの自由”という目的もカントとの共通点と言えるだろう。彼は「自業自得の拘束(self-incurred tutelage)」という言葉で社会的イデオロギーによる制圧を指摘し、論文の中でその代表として、政府と教会の存在に触れるのだが“Cube”でも然り、自分達はアメリカ政府による実験に利用されていると結論付け、有無を言わせぬその支配権に対し挑戦的な態度を剥き出しにする者が描かれる。

 又、ランダムに仕掛けられた死の罠を避けながら出口を探す方法に関しては、ヘーゲルの弁証法そのものである。まず彼らは、ある者のアイディアをとりあえず採用し、進んで行く(テーゼ)。しかし後に、部屋の扉に掛かる数列のプレートに気付き、それが罠の有無を読むための暗号である事を発見する(アンチテーゼ)。そこで、より科学的且つ正確な手段として、後者の意見を選択する。つまり彼らは問題が生じる毎に冷静な判断を下し、そして出口(絶対精神)にまっすぐ向かっている事と信じていた。正にここに、「発展する一直線の歴史」と取れる展開を見る事ができる。

 以上、前半部分では啓蒙の時代とモダニズムを振り返った。次の章では、彼らが最終的に行き着いた場所 -本論ではモダニズムの結末と捉えるー が露わになる後半部分を見る。

 モダニズム終焉の考察にあたりその最も顕著な傾向の例として、まず合理主義の限界が挙げられる。映画の中でそれは、“正確”の基準の曖昧さ、そして、理性の崩壊、として描かれている。

 それでは最初に“正確” -ヘーゲルの弁証法に表されたような― という事の問題について具体的に見てみよう。つまり“事物の多様性”の可能性である。すでに見てきたように、彼等は分岐点に立つ度に方法として一つのアイディアを決定採用していった。次の部屋へと歩みを進める際は、数学といういわゆる一つの正解答、二者択一が前提の科学に頼ってきた。それは、着々と部屋の暗号を解き、確かに順調に見えた。瞬く間にゴールという希望の光が見えてきた様で、皆勢いづいていた。しかしその数式が、ある部屋でぱったりと効かなくなってしまう。その部屋を境に数学の効力は消えた。幾通りにも、解答の可能性が存在する数列に、暗号のシステムが変化したのだった。彼らは、状況に応じてあらゆる多用な方法を駆使する必要性に迫られるのだった。更には、部屋がビル内で定期的に移動している事が判明する。時間毎に縦横規則的に、全ての部屋が一つづつずれる事で、最終的には一周して元の位置に戻る、自動ローテーションが繰り返し行なわれていたのである。つまりそれは、彼らが同じ部屋を繰り返し通過したかもしれない可能性をも示す。要は出口への一本の道など存在しなかったのである。

 この件で映画は、弁証法の基盤を、よってモダニズムの幻想を根底から打ち砕く事に成功している。Janet Wolffが“death of the author”について述べている説をここで引用させてもらおう。彼女は文学研究において、著者が意図した主旨を絶対視し、主な目的をその調査に費やすという研究方法に反論する。これは文学に限らず適用されるべき主張となり得るだろう。

 彼女によると、文章を成立させる言葉は“暗号”に等しいという。従来の研究方法とは著者の生い立ちや時代背景の考証からその暗号を理解し、それを基に普遍の価値を定義してゆくというものだった。すなわち、読解方法の決定権は全面的に著者にある。しかしWolffは、暗号は“多用(multiplicity)”であると批判する。読者それぞれの主点からの理解、すなわち“birth of reader”である。

 “A text is made of multiple writings, drawn from many cultures and entering into mutual relations of dialogue, parody, contestation, but there is one place where this multiplicity of focused and that place is the reader, not in its origin but in its destination.”

(文章には様々な文体がある。そこには、あらゆる文化が映し出されており、対話や風刺、論争などでは引き合いにも出される。しかし読者こそが、その多様性の所有者である。原文ではなく、読者との距離にこそ、その多様性は属すのである。)

 言葉が、作家ではなく読者と交信する暗号なのならば、その答え(言葉の解釈)も読者の種類だけ様々に生まれる。つまり答えは一つではない。“多様”なのである。

 そうならば、現象の決定も本来は多様だった筈であり、この点においてヘーゲルは否定される。唯一どころか排除されるべき無意味な意見があるはずもなく、あらゆる解釈が正確さを備えている事を見なおさなければならない。“前進する歴史”や“一つの‘absolute spirit’”信仰も、疑う余地が見えてくる。我々の歴史もまた、「多様」なのである。

 さて、論点を映画に戻すと、以上のような事実に直面した彼等は突然緊張の糸が切れ、文字通り我を忘れ、理性を失う。パニックはエスカレートし、自己制御能力不能に陥ってゆく様が、暴力、嫉妬、性的欲求、と赤裸々に描写される。特に興味深いのは、日常で警察官だった男が恐怖政治の独裁者に豹変する点である。それまで彼は、メンバー中最も穏やかに冷静に皆を導く存在だった。しかし法と秩序の遂行を名目に、自己の正義、正当化にしがみつき、結果、“弱者”として女性に性的関係を強制し、そして異論を唱える“邪魔者”は殺害して消す。これは近現代史に見る帝国主義支配、戦争による他者制圧の仕組みに似ている。自分と同類でない者をいち早く嗅ぎ分け、恐怖心を抱き、自己防衛を張り巡らすのは、動物生来の能力だが、人間はその本能を侵略と征服、同化の歴史に刻み込んできた。調査による分類、認識がモットーであるモダニズムにおいては、“自己”と“他者”、“マジョリティ”と“マイノリティ”等、強者(支配層)と弱者(従属層)のカテゴリー維持がより正当化されたと考えられる。果たしてこの事実を合理化の名の元に施行が許される法と秩序として見過ごせるか否か。映画は警察官を暴力支配の権化に変化させる事で提議しているかのようである。

 それに対し、答えも続けて用意されている。男を封じ込めようとメンバー達から反発が沸き起こったのである。かくしてCubeの内部は、警察官の男対他のメンバー、という殺し合いの修羅場と化す。これを合理主義の反動と見なすべきか。例えばバタイユは、モダニズム的社会秩序の強制に対する反抗勢力の出現を予言する。

 “…my head bridled and pulled by the idea that brutalizes all men and causes them to be docile-the idea in the form of, among other things, a piece of paper adorned with the arms of the state…But sudden cataclysms, great popular manifestations of madness, riots, enormous revolutionary slaughters – all these show the extent of the inevitable backlash…little by little the contradictory signs of servitude and revolt are revealed in all things.”

(私の頭は、ある考えに縛られ、引き裂かれている。全ての人々を残酷なまでに非道に扱い、国家権力に飾り奉られた紙切れ一枚に従順にならざるを得ない、あの考えに…だが突如湧き上がる激変の波、大衆により声高に宣言される激怒、暴動、莫大な革命的虐殺…これらは、反動の必然性の程を証明している…徐々に徐々に、隷属への反駁のサインが、反感が、そのベールを脱ぎ始めている。)

バタイユはまず、社会の基盤にある無意識の力関係、―絶対的なイデオロギーとそれに従属する一般市民により成り立つ現代社会システムー に注目する。その上で、その強制的な抑圧に対する“backlash(過激な反動)”が起こるだろうと言うのである。

 かくして“Cube”は、戦慄極まりない、生き残りを掛けた殺人レース場と成り果てた。もはや誰も一致団結による事態究明など考えてはいない。誰が自分をコントロールするのかなど、出口の存在など、その目的を覚えている者は誰一人いない。それよりも今は、殺されないよう、生き残るよう、戦いが先決の事態を招いてしまったのだ。

 “The work is observed with cold eyes and indifferent spirit. The great masses wonder through the rooms, find the canvases nice or great. The man who could have said something to his fellow man has said nothing, and he who might have heard has heard nothing. This condition of art is called l’art pour l’art…

The artist seeks material rewards for his skill, his powers of inversion and observation. His aim becomes the satisfaction of his own ambition and greed. Instead of a close collaboration among artists, there is a scramble for these rewards. There are complains about competition and overproduction. Hatred, bias, factions, jealousy and intrigue are the consequences of this purposeless, materialist art.”

(冷ややかな眼と無関心な感情が作品を眺めている。大勢の人が部屋の中をふらふらし、カンバスに向かってナイス、グレイト、と単語を発する。権威ある者は何も言わない。何も聞いていなかったのだ。これが、“art for art sake”と呼ばれているものだ。

 作家は、自分の技術、つまりいかに自分の観察と倒錯の能力が優れているかに対し、物質的な報酬を要求する。彼の目的は、自信の野心と欲を満足させる事。作家同士、切磋卓磨より報酬の奪い合いに精を出す。

 競争による過剰生産に対して、文句の声も上がっている。しかし、憎悪、偏見、派閥、嫉妬、そして陰謀。これが、物質主義者達による無意味なアートの結果だ。)

 これは、1912年に出版された“On the spiritual in Art”において著者のカンディンスキーが、当時のアート界を嘆いた言葉である。当時のアート界 ―丁度モダニズムが資本主義による独占的な兆しを見せ始め、更に産業の機械化、テクノロジーの発展が進む時代、アートも工業生産と商業化の波に乗っていた。この“資本主義的競争”が、正にCubeで起こり始めていると解釈する事は出来ないだろうか。本来見据えていた筈の目標も希望も忘れ去られ、一歩足を踏み入れたらリタイアも許されない、文字通り死ぬまで続くサバイバルレース。不断で戦うその殺し合いに、いわゆる“自己決定能力”は必要ない。ただ、走らされる。(ちなみに、Mark Wallingerは、それを、イギリス上流階級の社交場であるアスコット競馬場で、彼らの資産の象徴として、又、資本の重要な稼ぎ手として走らされる競走馬に例える。彼の絵は至って写実的に馬を写生しており、古典のように美しいのだが、それだけに“無感動”である。馬一体一体から個性や感情は抜き取られ、正にロボット的な薄ら寒さと共に不気味とも呼べる奇妙な感情を誘引する。)これが、Cubeの、つまりモダニズムの、最終章である。

 Cubeのビル建設に携わった男が、観念したかのように自嘲気味に漏らし始める。「このビルにそんなたいそうな意味はないよ。建築段階でも俺達は何を造っているのか、誰の命令なのかわからなかった。たぶんそんな奴も組織もないんだよ。だからなんで俺達が今ここにいるのかなんてのも理由はないんだよ。」すなわちこれは、イデオロギーの存在、又、“役割”“立場”の存在を打ち消す言葉であり、要するに生の意味をも否定するものである。この台詞は、明らかにイデオロギーに対する戦い、真実の追求、不条理の解明、等、いわゆるモダニズム的プランの無意味さに切り込んでいる。

 しかし、もしモダニズムが無意味に還元されるとするならば、では私達の「思考」の意味もまた、無駄と片付けられてしまうのか。私達が考える脳を持つ事はもはや否定できない。これからも哲学は続き、又、資本主義的戦いも行なわれてゆくだろう。そうである以上、世界の動力は依然“思考”である事は必至である。それとも私達は理性を捨て去る事が可能なのか?思考という能力に使い道はないのか?

 正にそれに対する鍵が、映画の最後に残されていた。理性の意味、また同時に、想像力の意味を“Cube”は訴えるのである。

 まず全てのストーリーの始まりを振返ってみると、登場人物達のモチベーションは常に“想像力”であった事がわかる。彼らはとりあえず“逃走”という行為を試みた。理解不能な状況を“恐れる”能力、そこから“死”を連想する能力、そして脱出の可能性を夢見る能力の為と言える。しかし最終的に行き着いた所は破滅だった。部屋は動き、ビルの中で一周している。言い換えればそれは、最初に入りこんだ入り口(つまり出口)の部屋はただじっと待っていさえすれば自動的に一周してまた彼らの目の前に戻ってくる筈だった事を意味する。未来を想像してしまったがゆえに陥る必要の無い袋小路に自らはまっていった、その脳の無力さが明らかにされている。

 そこで彼らとの対比として、知的障害と思われる男がストーリーに登場する。喜怒哀楽は備わっているが、全くその制御能力が無く、言葉も話せない、回りに促されるままにただ逃亡の経路をついてゆく、すなわち赤ん坊同然の男である。しかし特異な技術を彼は身に付けていた。それは、膨大な数式計算を完璧に暗記している事である。つまり、彼は感情を残した“機械”なのである。最終的にストーリーは彼だけが生き残り外界への出口に立つ、というシーンで幕を降ろす。眼前で重い扉が開かれ、突如光が無垢な彼の瞳に飛び込んでくる。光は、見る見るうちに白い洪水のように溢れ返り、無限に広がる。眩し過ぎて、広大過ぎて先を見渡せない。立ち尽くす彼の背中は少し頼りなげに見え、それはまるで武器も飾りも全て捨て去り、丸裸の姿で新天地に曝される男のようである。しかし光の海は浄化するかのように彼を出迎えている。このエンディングは何を意味するのか?

ここでドゥルーズとガタリの理論を引用させてもらいたい。まず彼らは、人間は基本的に機械であると主張する。ある者の“視線”マシーンが他人の“顔、表情”マシーンにコネクトされるとお互いの“欲求”マシーンが作動する、と言うように、体内のあらゆる器官を機械と見なすのである。

 “Everywhere it is machine –real ones, not figurative ones; machines driving other machines, machines being driven by other machines, with all the necessary couplings and connections. An organ-machine is plugged into an energy-source-machine; the one produces a flow that the other interrupts. The breast is a machine that produces milk, and the mouth a machine coupled to it…each with his little machines. For every organ-machine, an energy-machine.”

(どこもかしこも、機械だらけだ -比喩ではなく、本当の意味で言うのである。他者のマシーンを動かすマシーン、他者のマシーンにより動かされるマシーン。全ては適切な連結と接続の賜物である。器官マシーンはエネルギー元マシーンに接続され、流動と中断が繰り返される。胸は、ミルクを出すマシーンで、口は、それに吸い付くマシーン…器官マシーンとエネルギーマシーンがあり、その元にそれぞれ小さなマシーンが働いているのである。)

 この“full body being”に対し、資本主義において登場した“Body without organ”の存在を彼らは指摘する。“器官マシーンが組み込まれていない身体”、つまりそれは、体に似せて造られた中味の無いフォームの事を言う。

 “It is the body without an image. This imageless, organless body, the nonproductive, exists right there where it is produced, in the third stage of the binary-linear series.”

(それはイメージの無いボディーである。このイメージレス、オーガンレスの体は、非生産的であり、二元論の世界において第三のステージを、その場その時を、生きている。)

“Cube”において実にその男こそが、この“body without organ”だと解釈する事ができるだろう。彼は瞬間瞬間にのみ反応を見せる。そこに過剰な想像力や理性、意志はない。過去の記憶を手繰り、そこから何か学ぶような事もそこから未来を予想し怯え苦しむ事も無い。その代わり、余計な強欲さも敵意も、無い。

 しかしそれこそがいつのまにか脱出成功の所以になっていた事をストーリーはほのめかす。「貴方だけは生き残って」とメンバーの一人が最期の希望を託してこのモダニズム的人間関係に一切無関係かつ無欲の男を逃がすのである。要するにこれは、従来の意味で言ういわゆる社会的人間性を放棄し、文字通り“空の身体”となった者のみがモダニズムとポストモダニズムという迷宮から抜け出し、再構築と言う新生のステージに駒を進めたという事だろうか。Body without organに“なれた”のか“成り果てた”のか、出口とは“出口”だったのか、別のCubeへの“入り口”なのか、彼はどこに出てどこに向かい、その後どの様に生きていったのか、全く示さず“cube”は終わる。それはあたかも、今現在私達が立たされている社会状況に重ね合わされているかのように思えて仕方が無い。今後何がどうなるか予測もつかない、将来像の設定も、もはや有意義なのか有害なのか、疑いだけが残る。だからこそ“Cube”というビルは、既成のどのコードにも引っ掛かる事の無い、この男だけをとりあえず“放り出した”というのか。中では相変わらず殺人が繰り返されているのだろう。新しいストーリーのその後は、誰でもないもはやこの男の責任によってしか決定する事はできないのである。

 結論として、“Cube”は明確に我々の過去と現在の状況を描き出したと言える。まず啓蒙の時代。自由を勝ち得る為、人間について、状況について、現象について、哲学を広めた時期。キーワードは、「合理主義」、「理性」、そして「発展する歴史」であった。

 次にモダニズム。それは啓蒙の時代の実践とも呼べる、正に頭脳の開花と興隆の時代。皆競い合う様にして科学技術を、知識を高め、それは確かに一丸となって何か夢に向かって突き進んでいるように思えた。

 しかし“Cube”はそのようなモダニズム神話の大きな崩壊をまざまざと見せ付ける。ポストモダニズムの到来である。例えばそれは理性と合理主義による規制の秩序の限界として、例えばそれは生きる意味やイデオロギーの存在への疑問符として、そして更には人間としての基本中の基本である機能、哲学や想像力までにも猜疑の目を向ける事で、人間の機械性、つまり人体(human body)の再考へとストーリーを運び、我々の目の前にとことんつきつけてきた。そして最終的な結末は、まるで新しい人間;感情を持つ機械の再誕、のようである。

 マルクスは、ヘーゲルの弁証法に対して「順序が逆立ちしている」と批評している。「理性による議論の積み重ねは理想的だが、ヘーゲルの場合、当時の国家、プロイセンをすでに“absolute spirit”として先に据えてしまっていた。」と。つまり未来が前提として現在よりも先に横たわり、従って未来の為に現在の選択が自然と狭められているという事だ。この考えは何か私達に今後生きて行くための指針を与えてくれるものなのだろうか。とりあえず映画の最後、生き残った男のように私達は解放され、先も見えない光の中を一歩、踏み出さなくてはいけないのだ。

aya-kobayashi-manita 's 翻訳 Try It ! ~pupils with heart~

こんにちは。学生時代、文化史と美術史を専攻した後(ロンドン留学含む)、美術館学芸業務補助を経て、カルチャースクール勤務。現在、在宅で翻訳の勉強中。主に、①芸術事の感想(展覧会、舞台、映画、小説など)、②英語で書かれた世界各国の美術館図録や美術評論、③英語圏の絵本や児童文学、文芸作品、④英語の歌詞、⑤趣味の朗読やよみきかせ、歌、⑥日常の散歩や旅行記、生活の一コマなど・・日英語で記してゆきたいです。

0コメント

  • 1000 / 1000