映画『君の名は』(名前を聞くという事。編。)~復活エッセイ・プチ①~
以前のブログページより転載。2016年記述。深海誠監督の、一躍評判となった長編アニメに、かつて目を通した西洋哲学(特に記号学)を重ね合わせた個人的感想文です。メモ書き程度のような文体で申し訳ないのですが、そのまま載せさせて頂きます。
参考文献:ロラン・バルト『表徴の帝国』宇左近訳、新潮社『創造の小径』1974/ちくま学芸文庫 1996
君の名は。(名前を聞くという事。編。)
2016-10-29 11:39:25
テーマ:芸術事感想
君の名は。(断定)
君の名は(継続)
君の名は?(疑問)
君の名は・・・・(詠嘆)
などなど。うーん、色々なパターンを考えてみたよ。ウインク
シェークスピアの『ロミオとジュリエット』では、思い切って
「おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの?」ともはや『否定』形となっている。
漫画『ガラスの仮面』に描かれる劇『くれない天女』では、更に踏み込んで
「名前を捨てておくれ」と『究極』です。
・・・・・・(私は国文科ではないので、大目に見てください・・・・キョロキョロ)
?名前を知っていると逆に恋愛は不自由になるのかにゃ??キョロキョロ
・・・・・・(アタシにそんな恋愛沙汰の質問は愚問です・・・・・ガーン)
まあそんなこんなを思い出したので、そういえば名前を聞くというある意味特別な儀式にも似た男女間の行為を少し考えてみた。
人は、名前をつけられ人間(個性)になるのかもしれない。イコール、人間社会に参加する自由と拘束を同時に得るのである。
名前を呼ばれればその人はその人になる。人間として個性を認められ、存在を確かにする。と同時に、返事をしなければならない人間としての義務に縛られる事になる。名前というサインになる。人間として社会で生きるために必要不可欠のイデオロギーが働くのだ。
・・・・・・と、推察する。
確かに、名前を聞くというのは、そして、名前を伝えるというのは、なんて素敵なやりとりなのだろう。お互いをお互いの記憶に残し、存在を刻み込む、意識の交換へと結びつく。恋愛においては、お互いをなくてはならない存在だと認め合う瞬間だろう。
そうだ。まずは自己紹介だろう。それが人間の礼儀というものである。
しかし一方で。
人間の理性を超えた(超越した)状況の場合。名前などなんになろう。親から授けられた最初で最高のこの世におけるプレゼントであるはずであろう『名前』。だがその名前が邪魔する時もあるのだろう。生まれた場所も家も地位も捨て、飛び込む時、それが例え恋愛であろうと逆に戦いの場であろうと、それはそれで『個』になる瞬間である。ロミオとジュリエット、や、くれない天女のケースのように。
ただし、まあ、人間的とは言えないなあ。
でも、でもだ。
例えば猫で例を考えてみれば。だって日本には『吾輩は猫である』という名作があるから。
「吾輩は猫である。名前はまだない。」(・・・開き直り。)
この、T.Sエリオットの、一匹一匹に丁寧に名前をつけて個性を授けているキャッツの詩に対抗するがごとく出だしはどうだ。
「名前はないが自尊心くらいあるにきまっているだろう。名前はないが猫やってまーす。それが何か。」
的な。
あたかもそういっているかのような。究極の自由人だ。ネコびっくり自己肯定も自己否定も全て自分で済ます、自己完結型。「相手」という鏡がなくなってしまう。
・・・・・・ほっこり
名前という記号を背負い、私達は日々生きている。
いうなれば、社会を生きるために日々私達は記号となる。
集団に属せるように、社会で管理されるために、名前を呼ばれようと、名前を覚えてもらおうと、日々、生きる。
なんだか矛盾しているようだが、いったい何人が私の名前を憶えてくれていて、SNSで検索にかけてくれているだろうか?などと小さくも寂しく悩んだりもするのが現実だ。
ほっこりだから、映画「君の名は。」に戻るが。ネタバレになるが、「忘れないようにお互いの名前を手のひらに書いておこう」といって、「好きだ」と代わりに書く場面がある。
これは、ただロマンチックなだけではない。なんて勇気のいる行為だろう。自分の名前を覚えてもらうせっかくのチャンスなのに、そんなことより大事な一言がある、と、それは「好きだ」だと・・・超越したのか。
「君の名は。」と○の読点で終わらせているという事は、「君の名は××さん」という単なる会話ではなく、名を教え合うという事はどのような意味が必然的にこめられるのか、この映画から論じることができるようにも思える。名前がそんなに大事か。大事なのだ。そして。
最後は名前をもどうでもよくするような超えた存在と、お互いなるのだろうか。
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