aya-kobayashi-manita 's 翻訳 Try It !

『あさになったのでまどをあけますよ』作:荒井良二

『あさになったのでまどをあけますよ』作:荒井良二


 最近、衝撃を受けた絵本。荒井良二氏による、『あさになったのでまどをあけますよ』。何に衝撃を受けたかというと、その大胆な絵。絵本の中で、絵というものは、勿論、その書籍の価値を決めるパーセンテージ指数の半分以上を占めるものだろう。大体、私などは、書店で絵本を選ぶと時といったら、パラパラっとページをめくり、目に飛び込んでくる絵の世界にまず興味が湧き、その後、内容を確かめるといった具合である。つまり、第一に“絵”、である。

 荒井氏の絵は、非常にダイナミックな中に繊細さが見え、どちらかというと抽象的。とても、幼児向けのシンプルな構図に単純な造形、とはほど遠く、いわゆる『大人向けの絵本』かもしれない。それも、私は、個人的に大好き。気に入った!まるで荒々しい印象派のような、或いはフォーヴィスム(野獣派)のような、力強いタッチに思い切った色彩!しかも、1ページ1ページがしっかりとした絵画作品のような出来栄えで、うっとり、とか、感動、というのではないが、とにかく圧倒されてしまう。ガツンとやられる、心に"くる”という感じだ。

 山や海や、都市や、田園や・・・大きな大きな視野を求める風景画のような絵が続き、その冒頭に、言葉が、一言、ちょこんと載っている。「あさになったのでまどをあけますよ」なるほど、これら風景のイメージは、家や部屋の窓を開け放った時に見える光景らしいことがわかる。朝、薄暗い中、太陽の光が家の中に差し込み始め、外には朝日が昇ったらしいと体が感じる、その頃の時刻・・・大抵の人は、まず、窓を開けることだろう。そこに広がる光景。山や海、都市や、田園や・・・まるで、窓という額縁に縁どられた、風景という一枚の芸術作品。どこもここも、美しい。この絵本に登場する窓は、全て、愛されている。恵まれている。きっとそこの住人は、そこから見える風景を愛しているのだろうから。この山をいつも見ていたい、この海のそばにいつもいたい、この街に、この村に住みたい・・・そのような思いで家を建てた、もしくは部屋を借りた住人のための窓。

 朝いちばんに開ける窓から見える風景って、こんなにも大事なんだなと気づく。朝日と共に覚醒する意識・・・その起き抜けの意識は、きっと、開け放つ窓の外で、もう早くも目覚めている景色に、わっと連れ去られる事だろう。夜が明けて、外の世界の息遣いにその日初めて触れるという事。私達の一日は、そのような、風景が与えてくれる空気を大きく吸って、始まる。今日という、新しい一日を迎えるのだ。その日のスケジュール、その日の朝食、その日の洋服・・・あれこれ新鮮な息吹と共に、考えは巡る。或いは、山に吹く風や、海をゆく波の具合で、その日の天気に身をゆだねてみたり、道行く人の足早な靴音に胸を鼓舞されたり、木々に差し込む光の揺れ方に合わせて体を伸ばしてみたり。あさになったのでまどをあけますよ、というのは、一日の始まりを祝福する最も大切な瞬間なのだろう。荒井氏の絵は、まるで見ているこちらにまで、その風景が放つ匂いや音、空気感、そして刻一刻と移り行く光と影の調和までをも伝えてくるようだ。そして、ひとこと、気づけば小さく口にしたようなほんの些細な言葉が、ページにあることで、風景を前に、自分たちの存在のなんとちっぽけな事かと、思わされるような効果を生み出しているのではないか?それはつまり、朝を迎えた地球の光景に対する人間の小ささ、そして、各々が拠点を張る日常の風景の中で、その日一日を生活するという、要するに、また一日を生きる、生きられるという有り難さまでもが感じられる、と言っても過言ではないだろう。




 恥ずかしながら、私の家にも、とっておきの窓というものがある。食卓の脇、家の一番東側に当たる箇所に造ってもらった、比較的大きめの窓だ。最近、朝は、その窓を開けるのがとても楽しみになっている。というのも、庭にチューリップが咲いたから。チューリップだけでなく、様々な花が小さいコーナーながらも咲いてくれていて、目を潤してくれる。庭仕事はまだ初心者だが、私は、その一角を小さな花園のようにしてゆければと密かに計画して楽しみになっている。なので、その、一番東側にある大きな窓を開けるのは、ほんの1~2分、私にとって一種のメディテーションのような時間だ。今後の造園設計に想いを馳せてみたり、その日のチューリップの成長具合を愛でるのが非常に幸せなのだ。

 風景は、同じであって二度と同じものではない。場所は同じでも、時は流れ、風は流れ、光も揺れる。荒井氏は、きっとその魅力に取りつかれた一人なのだろうか。同じであって同じでない風景を、目でとらえ、一枚の絵として切り取っているのではないだろうか。まるで、呼吸するかのように。まるで、息の調子は常に正確ではないように。時に大胆に、時に緻密に。それは、無意識でも、″今、ここ”を大切にするという事に繋がる。その一瞬を目に焼き付けるという儀式、それが、あさになったのでまどをあける事なのかもしれない。

 朝、一番に開ける窓の向こうには、是非、お気に入りの風景が広がっていてほしいものだ。なぜなら、窓の向こうの風景は、見つめてみれば自分の呼吸を確認することだから。それは、今日一日、生活するという事に想いを巡らせ、要するに、命を抱きしめるという事。生きるという事への感謝を肌で感じる瞬間。この絵本は、そのような、当たり前の幸せを再認識できるような作品だと思う。


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 It is clear that if pictorial work springs from the brain, the soul, it does so only by means of the eye, the eye being basically similar to the ear in music; the Impressionist is therefore a modernist painter endowed with an uncommon sensibility of the eye. He is one who, forgetting the pictures amassed through centuries in museums, forgetting his optical art school training - line perspective, colour - by dint of living and seeing frankly and primitively in the bright open air, that is, outside his poorly lighted studio, whether the city street, the country, or the interiors of houses, has succeeded in remaking for himself a natural eye, and in seeing naturally and painting as simply as he sees.

 絵画作品が、もし脳や魂から沸き起こるものなのなら、その媒介は目でしかないという事は確かだ。音楽にとっての耳、それと似たものが、基本的には、目だ;ゆえに、印象派の者達とは、尋常でない感覚の目に恵まれた近代画家である。何世紀も美術館で蓄積されてきた絵画たちを忘れて、生活のために受けた美術学校での視覚的教育 ー線による遠近法や色彩ー を忘れて、明るい開放的な空気の中でありのままに、原始的に、彼らは見る。その主題が、街の通りにしても、田舎にしても、家の調度品にしても、ほそぼそと明りのついたアトリエの外である。そのことで、自然体の目、ごく自然に見つめ、素直に見た通りに描くことに成功している。


 - form obtained not by line but solely by vibration and contrast of colour; theoretic perspective replaced by the natural perspective of colour vibration and contrast; studio lighting - that is ,a painting, whether representing a city street, the country, or a lighted drawing room, replaced by plein-air, open air - that is , by the painting done in front of its subject, however impractical, and in the shortest possible time, considering how quickly the light changes.

 -線によってではなく、ただ雰囲気と、色の配置による造形。理論的な遠近法は、色の雰囲気と対比による、自然な遠近にとって代わられる;その絵が、街の通りにしても、田舎にしても、或いは明りのついたリビングにしても、アトリエの明かりは自然の空気、外の空気にとって代わられる。事物を目の前にして描かれる絵、それでいて、現実的ではなく、いかに光が変わりやすいものかを熟考しながら最も短くて可能な時間で描く絵である。



The academic Eye and the Impressionist Eye; Poliphony of Colour. In a landscape flooded with light, in which beings are outlined as if in coloured grisaille, where the academic painter see nothing but a broad expanse of whiteness, the Impressionist sees light as bathing everything not  with a dead whiteness but rather with a thousand vibrant struggling colours of rich prismatic decomposition. Where the one sees only the external outline of objects, the other sees the real living lines built not in geometric forms but in a thousand irregular strokes, which, at a distance, establishe life. Where one sees things placed in their regular respective planes according to a skeleton reducible to pure theoretic design, the other sees perspective established by a thousand trivial touches of tone and brush, by the varieties of atomospheric states induced by moving planed.

 学術的な目と印象派的な目;色彩のポリフォニー(多声音楽)。光が満ち溢れている風景において、生物はあたかも彩色されたグリザイユ(モノトーンで描かれた絵画)のように引き立つ。そこで、学術的な画家は、目にする広い広がりのみを見る。印象派は、光を、全てを洗い流すものとして、決まりきった白を使うというより、おおいに多彩な質感を含んで様々に入り混じった明るい何千もの色、として見る。ある者は、物事の輪郭をなぞるだけなのに対し、一方は、物事を幾何学的でなく、何千もの不規則な筆づかいによる生きた線として見る。そして、その筆づかいとは、距離を置けば生命を宿すのである。ある者は、物事を、純粋に規則正しくて理論的に構造として変形可能な、それぞれ水平上に配置された骨組みによるものとして見るのに対し、一方は、遠近を、筆の何千もの微妙な筆致や濃淡による造形として見て、それを、絶えず変化する面により引き起こされる様々な雰囲気の状態とするのだ。

 

ーfrom Jules Laforgue(1860-1887) 'Impressionism'


☆そして、我が家の風景↓↓





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こんにちは。学生時代、文化史と美術史を専攻した後(ロンドン留学含む)、美術館学芸業務補助を経て、カルチャースクール勤務。現在、在宅で翻訳の勉強中。主に、①芸術事の感想(展覧会、舞台、映画、小説など)、②英語で書かれた世界各国の美術館図録や美術評論、③英語圏の絵本や児童文学、文芸作品、④英語の歌詞、⑤趣味の朗読やよみきかせ、歌、⑥日常の散歩や旅行記、生活の一コマなど・・日英語で記してゆきたいです。

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