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窮鼠、東京都都庁へ行く?~バンクシー 考察in 2019~

 A painter of modern life had been born, moreover a painter who derived from and resembled no other, who brought with him a totally new artistic flavour, as well as totally new skills.

 -from "'L' Expositions des Independants' in 1880" written by F. K. Huysmans

 「近代化社会における画家が誕生した。彼らはまた、何から派生したわけでもなく、何に類似している訳でもない。全く新しい技術と、全く新しい芸術の要素を身に付けて、生まれた。」

 


 昨年の夏、東京都庁へ、バンクシーによって描かれたと思われる作品を観に行った。バンクシーは、基本的には年齢性別国籍など、全て不詳とされている、匿名のストリートアーティストであり、世界各国の壁や都市の一角に不意打ちに落書きとも言える作品を残してゆく事で知られている。ステンシルという、型紙を用いた作法で、政治的な皮肉や反権力的なメッセージを表現し、又、資本主義や美術業界の体制に疑問を投げかけるパフォーマンスを続けている。最近では、イギリスのオークション会社サザビーズにて、『愛はゴミ箱の中に』と表して、自分の作品にシュレッダーの自動措置を仕掛けておき、一億5千万円で落札された途端、その場で、発動された装置により、予告もなく自動的に作品を切り刻んでしまったという痛烈な"事件”?を起こした一件が、記憶に新しいところだ。

 

 そのような、怖いもの知らずのいたずら?実験?挑発?意地悪?ぶりで、美術業界で静かなブームとなっているバンクシーが、今回は東京の芝浦にある防波堤に、落書きの足跡を残していったらしいと、そして、それを本物かもしれないとして、東京都庁が公開に至ったという事で、早速、私も足を運んだのである。


 まずは、価値のあるバンクシーの作品かどうかも正確にはわからないのに、収集保存し、しかも無料で都庁の1階というオープンスペースで観覧させてもらえるという、都知事の心意気に、素直に感謝したいと思った。綺麗ごとを言うわけではないが、いわゆる、お金の為でも見せるためでも名を残すだめでもなく(港区の防潮堤に残されていた落書きという事で、ひょっとしたら誰の目にも触れずに今も雨風にさらされ続け、日の目を見ずにうち捨てられていた可能性もあることを考えると)、あくまで純粋でゲリラ的な試みである落書きの意図を、一国の首都である東京都が、時間と労力、予算を割いて汲まんとし、そのストリート性が投げかける社会意義、宣伝効果、問題提起にきちんと理解を示して応えるよう、一般公開にこぎつけてくれたという点は、非常に大切で、評価すべきだと思う。


 果たして、その作品は、一人の警備員に監視されながら、都庁一階フロアに、頑丈なガラスケースの中、展示されていた・・・正直、テレビのニュースなどで頻繁に宣伝したにも関わらず、結局は興味ある人しか聞きつけて来ないような状況に見えたし、見れたとしても順番があるため、とりあえず携帯で写真を撮っては次の人に譲る、というような、そんなに混雑もほとんどしていないのにじっくりと自由に観るのがはばかれる状態となっており、残念だった。しかも、おそらくもっと沢山の人が群がるだろうと想像されていたらしく、誰も並ばない列用のベルトがだらんと放置され出番もなく置かれていたのが、少し寂しくも思えた。別に閑古鳥が鳴いているという程の閑散ではなく、平日の昼間にも関わらず10数人程度列は作っていたが、現代美術に対する世の一般の反応などこんなものかと、少し気抜けしてしまった事は否めない。


 作品は、ステンシルでかたどられているというだけあって、とても見やすい、イラストのようなタッチの軽やかさでわかりやすく、誰もが違和感なく好感持てる美的センスだと思った。


 これを防潮堤に人知れず乗り込んでさっと落書き的に作業を遂行し、時を待ち、偶然見つけられるのを待っていたのか、ちゃっかりと宣伝を流し発見させたのか、とにかく第一発見者が見つけた時の様子などを勝手に想像し、それはとても面白くはある。

 傘をさしたネズミという事で、日本の、首都直下型地震への不安とか、原発への批判とか、あれこれと、今回、バンクシー東京上陸の意味を探ったり、問題提起には非常に有効な作品形態だったとは思う。何しろ、商業ベースに乗らない、あくまで無名のゲリラ的なストリートアート性が持つ純粋無垢さ、清廉さがいいと思う。


 ここで少し、美術史を、自分なりに振り返ってみようと思う。かつて、このように体制(社会体制、美術業界体制、等々)に逆らう、挑戦する、というような類のアートは、体制が組む、いわゆる"美術史”というアカデミックな潮流からはずされ、異端児扱いされたものである。

 例えばそれは、モダニズムに端を発するとすれば、かの『落選展』などが良い例だろう。当時、マネの"草上の昼食”を含む、アカデミーから落選の烙印を押された者達は、めげる事なく、そのような自分達の落選作品を集めて自主的な展覧会、その名も『落選展』を開催したのである。結果、印象派の誕生に繋がった事実は、非常に有名な話しである。

 更に、1950年代、DADAが登場する。マルセル・デュシャンが公募の美術展にて、トイレの便器をそっくりそのまま、ただし”R.Matt”とサインだけして出品・・・無理に展示品として設置した一例が思い出される。これには、ただ出展料だけ出して作者のサインがあれば、どこにでも売っているトイレの便器までも美術品として認められるのか?美術館の意味は?アーティストのオリジナリティとは?等々、様々な痛烈な美術界への批判が読み取れる出来事となった。

 1970年代には、様々な”ハプニング”が試される。或いは、フルクサスのように体制やブルジョア、西洋白人男性優位の社会への疑問を投げかける作品が当たり前のように実験的に台頭するようになる。

 ・・・などなど、ざっとおおまかな外観で申し訳ないのだが、どれも今回のバンクシー的な活動の礎に見える、アート界で実際に起こった美術史上のムーブメントを、思いつくまま、列挙してみた。この様に、体制に対する賛否両論的な作品は、もはや現代ではひとつのジャンルとしてアート界の主流を成していると言えるだろう。体制や、世にまかり通る先入観や既成概念をひっくり返すような主義主張を目的としたアートが、当たり前のようにアカデミックに認められるようになった証拠だろう。


 それらは、いわゆる「規制によって見せられないのなら、かいくぐって(もしくは逆に上手く利用して)こちらから人々の目に触れさせてやろうじゃないか。」という、知能犯的な意気込みの表れとなり、現在に至っているように思える。80年代では、バスキアなど、正にストリートカルチャーが花開き、ヒップホップ、ラップ、地下鉄の落書き・・・などなど、その勢いは、嫌が応でもストリートを席巻し、メッセージは人々の目や耳に触れざるを得ない事となる。90年代に入って現れたのは、イギリスのYBA。先駆者デミアン・ハーストは、いまや大御所に肩を並べる程のアーティストの一人として名高いかもしれないが、若いころは、自費でギャラリーを借りて展示し、著名なギャラリストをタクシーで連れて回って、仲間ともどもの自分達の作品を見せて回った、という過去は有名な逸話である。

 それが2000年を過ぎて、バンクシーとなると、今までは低姿勢気味だったアーティストやアート側が、逆に、「無名のストリートアートだけど、こんなに価値があるよ、発見してよ、見たいなら見つけてよ」と、宣伝効果もあいまって非常に強気な立場に一変したように見える。天下のアート界が、バンクシーかどうかもわからない落書きに振り回され、しまいには、先述した作品『愛はゴミ箱の中に』のように、オークションで高値で競り落とされた直後に、あざ笑うかのようにシュレッダーされて無残な形にされてしまう始末。

 世間では、直島のようにアートを村おこしに起用したり、各トリエンナーレ・ビエンナーレのような、開催ボランティアも含めて一般市民参加型・体験型のイベントも隆盛し、アートと日常生活の境界線は、以前に比べて、よりあやふやになってきたように思える。そこで、いよいよ行政が絡む。 


 バンクシーは、行政の救いの手が入った一例だが、ここで、例えば行政自らの発注による作品制作、となると、どうなるのかも、取り上げておいてみたい。


 その良い例が、戦後、ドイツに現れた国会議事堂や、ユダヤ人博物館などだと思う。ドイツは、徹底的に可視化を遂行するため、国会議事堂の一部を総ガラス張りにして、観光客を含む一般の市民に議会の様子までも見えるようにしたのである。その建物は、あまりに斬新で、クリーンで、可視化の目的に恥じる事なく、心の塵までも晴れそうな清廉潔白さである。又、ユダヤ人博物館も、過去の歴史を省みて、ユダヤ人の真実というものを、どこまで核心に近づけられるかはわからないが、深く追究できる博物館となっている。オブジェやアート作品の設置により、ユダヤ人のルーツが、過去から現代まで、又、勿論、第二次世界大戦を始めとする迫害の歴史まで、観る者の感性に訴えかける美術館となっている。

 以上の施設には、ドイツが、国民ないし国際社会へ、国として出来る貢献や反省、推進などの意図が見て取れて、非常に進歩的で良いと思う。

参考まで・・・↓↓

ドイツ国会議事堂 http://arch-hiroshima.main.jp/main/a-map/germany/reichstag.html

ベルリン ユダヤ人博物館 https://www.travel.co.jp/guide/article/19182/


 そして今回、日本は東京、東京都都庁において、果たしてバンクシー(と思われる)は展示される運びとなった。これは、非常に発展的な試みだと思うし、改めて、都知事と都庁に感謝したい気分だ。落書きひとつのために奔走し、経費を廻し、客をかき集める・・・バンクシーの思惑もしてやったりという所だが、それ相応の価値はあっただろう。

 

 しかしながら、水を差すようだが、元来、体制批判の部類ので位置付けられそうなこのバンクシーなどが、批判の矛先たる体制やブルジョア階級の助けなければ、市民の目も引かず、結局はやはり知る人ぞしる・・・見向きもされないガラクタで終わっていたかもしれないというのは、非常に皮肉で、無視できない事実である。今回も、大変、内輪受けのみで終わっていたと言わざるを得ない閑古鳥ぶりではあった・・・体制を批判するはずが、それによって体制に保護される事になる・・・まさに、ミイラ取りがミイラにならないよう、もう当然ながら気づいてはいるだろうが、気を付けたいものだし、今後の課題ともなるだろう。バンクシーは、勿論ノーギャラで動く善意の(?)アーティストであり、アート活動だが、もし、ストリートアートが、温室育ちの過保護では、ちょっとすたるものだろう・・・。

 しかし、どうやってバンクシーがこの防潮堤に目を付け、近づき、いつなんどき落書きしたのか、そして、いつ、どうやって誰がどのようにどういう状態で、この作品に目を止め、都庁まで連絡が伝わったか・・・いたずらで意地悪な心の延長で、そのような現場に、非常に興味が湧くニュースではあった。



aya-kobayashi-manita 's 翻訳 Try It ! ~pupils with heart~

こんにちは。学生時代、文化史と美術史を専攻した後(ロンドン留学含む)、美術館学芸業務補助を経て、カルチャースクール勤務。現在、在宅で翻訳の勉強中。主に、①芸術事の感想(展覧会、舞台、映画、小説など)、②英語で書かれた世界各国の美術館図録や美術評論、③英語圏の絵本や児童文学、文芸作品、④英語の歌詞、⑤趣味の朗読やよみきかせ、歌、⑥日常の散歩や旅行記、生活の一コマなど・・日英語で記してゆきたいです。

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